厄災のあと

※にがにがさんのところのニカちゃんと冥のお話です。みかげさんは最初だけ

「あら、随分小さくなったわね」
「……ッ!?」
 ヒュ、と息が詰まる。
「■のところの末の子よね? ……ああそうか、あの子も人の姿になると小さくてかわいかったわね」
 酸素に飢えて、どうにか空気を吸い込もうとするが、うまくいくはずがなかった。息を吐いたら、二度と吸えないような気がして、詰まった息を吐き出すことができない。
「覚えてないかしら、一回会ったことがあるのよ。……まだ赤ちゃんの頃だったっけ。■は話してもくれなかったけど、あなたのお姉ちゃんたちはじゃれついてきて可愛かったわねぇ」
 安穏とした雰囲気で話す女の前で、立っていることもできずに膝から崩れ落ちる。苦しさを紛らわせようと服の胸元を握ったが、肺を圧し潰そうとする重圧はオキアミ一匹分ほども軽くなりはしない。
 ――姉たちに、しつこく聞かされた話。お前は溺れて死にかけたことがあるのだ、と。母に支えられなければ呼吸のために浮上することもままならず、姉たちが必死になって「魔女」を追い払って、どうにか命をつないだのだと、俺が調子に乗って長く潜航しすぎるたびに聞かされてきた。
 思い出した。この、虚ろな水の気配。海に生きるシャチの俺を、泳ぐこともできずにただ沈むばかりの死体のようにした――これが、その魔女だ。
 ぐら、と視界が揺れて、上体まで地面に平らになりそうなところを、手をついて支える。依然として息もできないまま伏せた顔に、ぼたぼたと涙が伝った。
「元気ないわね、大丈夫?」
 鱗を模したミュールの足が、コツ、と俺に一歩迫る。それだけで、思考の一切が恐怖に塗りつぶされた。
「く、るな」
「あら」
「俺に、……俺の群れに、近寄らないで、」
 女は足を止め、それから一歩で大きく距離を詰めた。
「優しい子ね。……またいつか、還っていらっしゃい」
 すれ違いざまに細い指が俺の髪に触れ、さら、と撫でられる感触。カツ、コツ、とミュールの音が遠ざかるのを聞きながら、俺は背骨が抜けてしまったかのようにゆっくりと地面に伸びた。
 いまだ引き攣る呼吸を繰り返しながら、溢れては地面に落ちる涙をまぶたに閉じ込めて、――意識が、沈む。

***

 ……いまだに、神経が圧し潰されたかのように全身の力が抜けている。いつまでも地面に倒れていると、座礁したときのことを思い出すようでよくない。
 はやく、はやく立ち上がりたいのに、せめて座るくらいできないのか、と指先で地面を掻くが、爪のあとさえ残せなかった。
「……」
 呼吸が落ち着いてきたことだけが、救いだ。泳げなくても、起き上がれなくても、ここは陸だから、息ができる。
 持ち上げられる気がしない、重い頭と体を転がして、どうにか仰向けになった。
 たた、ととと、と軽い足音が近寄ってくる気配。
 その足音には聞き覚えがあった。かっこ悪いところを見せたくなくて、無理をしてでも起き上がろうかと思ったが、彼女が来てくれたと思ったら、なけなしの力も溶けて消えていく。
「……えっ、冥くんしんじゃった!?」
 あまりの言いぐさに、それでもなぜか胸が暖かくなる。凍ったように強張っていた顔が緩んで、は、と吐息に笑い声が混じった。
「生きてるよ」
 そう、――生きている。二度もあの厄災と鉢合わせて、命がある。
「よかった。じゃあ、生きてるならニカとあそぼ!」
 ぐい、と小さいのに力強い手に引かれて、やっと腹に力を入れることができた。ようやく起き上がって、まだ重い脚を引きずり寄せ、胡坐をかく。
「んー、遊ぶ、けど、ちょっと抱っこされてくれない? ニカちゃんぎゅーしてたい」
「ええー? いいけど……」
 ええー? の段階でつかまれていた手を引っ張ると、ニカちゃんは抵抗もせずに胡坐の中に納まってくれた。それなりに強く抱きしめているはずなのに、小さくて細い体は、ともすれば俺の腕をすり抜けていきそうだ。前腕をほとんど重ねるようにして、彼女の肩に額を預ける。
「……冥くん、泣いてた?」
「……男の子にそういうの、聞かないほうがいいと、俺は思う」
「知らない男の子のことなんかどうでもいいの。わたしのこと大好きな冥くんに聞いてる」
 到底かないっこない。いつも格好つかないところばかり見せていて、嫌にならないのだろうか。こうして甘えさせてくれているうちは、きっと愛想をつかされたりはしていないのだろうけれど。
「……今は、泣いてないよ」
「じゃあさっきは泣いてたんだ。……誰」
 ぴりぴりとした、苛立ちまじりの声に、ゆっくりと顔を上げる。涙の痕でみっともないだろう顔を、じと、と見られた。
 多分、俺が痛めつけられたことよりも、どういう向きであれ自分以外に対して俺の心が動いたことにキレている。
「……おばけに会ったんだよ。怖くて泣いちゃった」
「おばけ?」
「そう。もう来ないでって言ったから、追っかけたりしなければ、多分もう会わないよ」
 本当か、と疑わし気な視線に苦笑して、俺は彼女の頬に頬を擦り寄せた。
「パパにお願いしたらやっつけてくれるよ」
「えー? ……おばけ退治するひとにさ、おばけこわくて泣いちゃいました! たすけて! って言うの、俺恥ずかしくてヤダよ。そんな弱い男にニカを任せられん、とか言われたらまた泣いちゃう」
「もー、冥くんそんな泣き虫だったっけ?」
 少し視線を動かせば、襟から覗く細い首が目に入った。気が付いたら口が開いていて、そのまま衝動に任せて軽く歯を立てる。
「いたっ」
 跳ねた肩が顎下を直撃するが、大した衝撃はなかった。
「急にどうしたの」
「だめ?」
「いいけど……」
 冥くんが噛むならニカも噛むから、お部屋のほうがいいかも。