カテゴリー: シュリンピア

クリスマスマーケット

「どうぞ、よい夜を」
 来店したときより随分と穏やかな顔をした「お客様」を見送ったイワンは、吹き抜けた冷たい風に首をすくめて店内へ戻ろうとした。くるり、踵を返しかけて、近くの角から出てきた人影に足を止める。
「……青海さん?」
「あら、ちょうどいいときに来れたみたいですわね」
 ことと、と靴の踵を鳴らして小走りに駆け寄ってきた青海は、ワンピースと、袖口や襟にファーの付いたコートで少々めかしこんでいるようだった。頬に血色を透かしたチークが、イワンと目を合わせるとふわり、滲むように濃くなる。
「レディ……あまりに眩しくて、もう一度昼が来たかと思ったよ。今日は一段ときれいだね」
「うふふ、そういっていただけると、頑張った甲斐がありますわね」
 イワンとともにドアをくぐりながら青海が言うには、クリスマスイブのこの日、夜には予定を空けて翌日も休みを取れるよう、調整に調整を重ねたらしい。
「大変だったんじゃないかい? 書き入れ時でしょ?」
「そりゃあ、もう。でもクリスマスはイブが本番みたいなところがあるから……当日の納品を希望される方、今年はいらっしゃらなくて助かりましたわ」
 代わりに今日は忙しかったですけど、とそれでも軽やかに笑う青海の頬を指の背で撫でて、イワンは眉を下げた。
「イワンさんに会いたくて頑張りましたのよ」
 ほめてくださる? と言うのに肩をすくめてイワンが両腕を広げると、青海はぱっと顔を輝かせて飛び込もうとしてから少しためらう。
「コックコートにお化粧がついてしまうかも」
「オレがまだ仕事をすると思うのかい?」
 片眉を上げて驚いたように言うイワンに微笑んで、青海はそっと彼の腕の中に収まった。胸板に手を添えるようにしてイワンを見上げると、背中へ回された大きな手の感触にふくふくと笑う。
「ね、イワンさん。わがままを言ってもよろしくて?」
「キミが望むことで、オレにできることならなんでも」
「……本当に?」
 妙に念を押す青海にイワンは首を傾げるが、「オレは嘘はつかないよ」とうなずいて見せた。
「……すこし、浮かれたことがしてみたくて。イワンさんといると、わたくしはずっと浮かれているかもしれないのですけど」
 おずおずと、しかし期待を込めた目でイワンを見つめて、青海は望みを口にする。
「クリスマスマーケットに、お誘いしたくて来ましたの。一緒にイルミネーションを見たくて」
「それは……外、だよね?」
「外ですわねぇ」
 困ったような顔をしたイワンに、しかし青海は動じない。
「今日は随分冷えるよ」
「ええ、でも風はそこまで強くありませんわ」
「……本当に行くのかい?」
「イワンさんがうなずいてくだされば」
 寒いからお嫌かもとは思ったのですけれど……と言いながら、彼が断わるとは思っていなそうな顔に、イワンは知らず笑いをこぼした。
「……少し、待っていてくれるかい? キミをエスコートするのに、ふさわしい格好というものがあるから」
「コックコートもとっても素敵ですわよ?」
「キッチンで火を使うための服なんだよ、コレ」
 シェフのオレをキミが気に入ってくれているのは嬉しいんだけどね? と言いつつ、イワンは慣れた手つきで青海からコートを脱がせ、クロークへしまう。青海もイワンの意図を察して、おとなしく席に着いた。
「紅茶でよかったかい?」
「ありがとうございます、ゆっくり待たせていただきますわね」
「そんなに長くは、待たせないよ」
 ゆるゆると会話をかわしながらも丁寧に淹れられた紅茶を前に、青海は着替えに行くイワンを見送る。ふわりと立ち上る湯気に頬を緩めて、鮮やかな水色(すいしょく)へ角砂糖ひとつ、ゆらゆらと崩れて溶けるのを見つめる。
「落ち着かなくちゃ。せっかくおめかししたのに、溶けてしまっては台無しですわ」
 くるりとティースプーンでかき混ぜて、すっかり砂糖を溶かし込んだ紅茶を一口飲むと、青海は静かに深呼吸をした。

 スーツに着替えて髪をセットしたイワンが戻ってくるなり、深呼吸の甲斐もなく「きゃあ」とかすかな悲鳴を上げた青海に、イワンはフフと笑った。
「キミ、本当にオレのこの格好に弱いね」
「勘違いなさらないで、わたくしはどんなイワンさんにも弱いですわよ」
「そうかい……?」
 首を傾げながら、イワンは青海に手を差し出す。ほんの一口残っていた紅茶を飲みきった青海がその手を取ると、ごく自然に立ち上がるのを助けて背に手を添えた。流れるようにクローク前まで来たところで、青海がはたと口を開く。
「ティーカップがそのままですわ」
「帰ってからでも……」
「茶渋が残ってしまってはコトですわよ」
 お店の大事な食器でしょう、と言いつつするりとイワンの腕の中から抜け出すと、青海はティーカップを持ってキッチンへ向かった。取り残されたイワンはしばしぽかんと立ち尽くし、それから眉を下げて少し笑った。早く行きたいのだろうし、茶渋が付いたとしても数時間程度のものならさほど苦も無く落とせる。それは青海もわかっているのだろうが、イワンが大事にしているものを、イワンと同じかそれ以上に大切に扱おうとしているのが見て取れて、どこかくすぐったいような心地で彼はクロークへ入り、自分のコートを着て青海のコートを取り出した。

「結局わたくしがお待たせしてしまって」
「いや、……ありがとう」
 イワンが広げたコートに袖を通した青海は、流れで後ろに回ったイワンにそのまま抱きしめられて首を傾げる。
「どうかなさいました?」
「……うん。今日、来てくれて……ありがとう」
「あら、わたくしはわがままを言いに来ましたのに」
 ころころと笑って、青海はイワンの手に自分の手を添えて撫でた。頬へ小さくキスを落として隣へ回ってきたイワンの顔色が悪いものではないのを見て、軽く息をつく。
「……行こうか」
「ええ。……ふふ、楽しみですわ」
 ドアを開けた途端、室内に侵入してきた冷たい空気に思わず二人で身を寄せてから、顔を見合わせて笑う。
「やっぱり寒いよ」
「早めに帰って来ましょうね」

 クリスマスマーケットに近づくにつれ、明るさと賑わいが増していく。浮かれたことがしてみたかったというだけあって、青海の足取りは軽く、弾むような靴音が上機嫌を奏でていた。
 会場の中心に向かって夜闇は薄れていき、かわりにマーケットに出店している飲食店から漂う香りが濃くなっていく。
「そういえば、青海さん……夕食は?」
「お昼が遅かったので、今はさほどお腹が空いていませんのよ。イワンさんは?」
「お客様が来ていたし、味見を少ししたくらいだね」
「どこかでちゃんと食べたほうがよろしいかしら」
「……いや、いろいろと美味いものを売っていそうだし、ここで少しずつ食べていこう」
「よろしいの?」
「こういう食べ方も……悪くはないでしょ」
 夜は長いから、おなかがすいたら食事を作ったっていい、とイワンが言えば、青海はぱちりと瞬きをしてからキュッとイワンの手を握って目を伏せた。
「そう、ね。夜は長いのですもの」
 色とりどりの光に紛れてわかりづらく頬を染める青海の手を静かに握り返して、イワンはゆったりと会場のフードコーナーへ足を進めた。

 それこそ味見をするように、二人で一つを分けたりしながら、ドイツソーセージやチュロス、シチューパンなどを食べてはあたりを見て歩き、一時間程が経った頃。それぞれホットチョコレートとグリューワインのマグカップで手を温めながら、ベンチに腰かけて電飾に輝くクリスマスツリーを眺めていた二人は、ふとお互いに目をやった。
「……見たかったものは、見れたかい」
「ええ、とってもきれい。……一番見たかったのは、イルミネーションに照らされたイワンさんでしたの」
 青海がス……と手を持ち上げて、イワンの髪にさらりと指を通す。カラフルな光を透かした白髪(はくはつ)をうっとりと見つめ、青海は満足げに笑った。
「……レディ、キミ、酔ってるね……?」
「あら、イワンさんこそ」
 お耳が赤くていらっしゃるわ、と前髪を払った先でじわ、と赤みがさしているイワンの耳を見てまた微笑む。
「オレが酔わないって、知ってるでしょ。寒いからだよ」
 イワンはじとり、と青海の手の中にあるグリューワインと自分の手の中にあるホットチョコレートを見比べてため息をつく。青海は加熱でアルコールが飛んでいるだろうといって選んでいたが、それなりに酒としての自我を残していたらしい。
「うふふ、たしかに酔っているかもしれませんわね。でもわたくし、ほんとのことしか言ってませんのよ」
「……それ、あとはオレがもらうから、これ以上酔わないで」
 青海の手からグリューワインを取り上げて、ホットチョコレートを代わりに持たせると、イワンは青海の肩を抱いた。くすくす、と笑う青海の頬に頬をすり寄せる。
「今度はオレのわがままを聞いてもらわなくちゃいけないんだから。……体が冷えてしまったから、帰ったら温めてくれるかい?」
「まあ大変、それじゃあ早く帰らないと」
 ぱちぱちと瞬きをして、青海は残っていたホットチョコレートを飲みきってしまおうとマグカップを傾ける。隣でイワンもグリューワインを片付けにかかり、湯気を嗅ぐだけよりはるかに強く香るスパイスと口当たりの良いオレンジの甘さに目を丸くした。
「これ、美味いね?」
「でしょう? つい進んでしまいましたのよ。こちらもコショウが効いていておいしいですわ」
 それこそもう少しアルコールを飛ばせば、お酒に弱い人や女性にも飲みやすそうな……と考え出したイワンの横で、青海は悠々とホットチョコレートを飲み進める。おいしいものに出会ったときのイワンを見ることもできて、彼女にしてみれば大満足のデートだった。
 彼にとってもそうであればいい、と青海が隣へ目をやると、冷たい外気の中で嗅ぐ香りと温かい室内で嗅ぐ香りの違いを計算していたイワンが、ふと青海へ視線をやり、それから片腕で閉じ込めるように青海を抱き寄せた。
「……なんて顔してるんだい、レディ」
「そんなにおかしな顔、してましたかしら。イワンさんとお出かけできてうれしいだけですわよ」
 それだけでそんなに夢心地な顔を、とは言わず、イワンはマグカップの底に残ったグリューワインを飲みきり、青海の手を引いて立ち上がった。
「マグカップは持ち帰れるのですって」
「持って帰っても、すぐには洗えないと思うよ」
「渋が付いたら、それはそれで、思い出ですわね」
「つけたままは良くないでしょ」
「じゃあ二人で洗いましょうね」
 手を引かれるまま立ち上がった青海が、歌うように言う。イワンの腕にわずかばかり体重を預けて歩く青海は、時折彼の顔を見上げては、んふふと笑っていた。

 二人が背にしたクリスマスマーケットの光と喧騒は瞬く間に遠くなり、キンと冴えた夜闇があたりを浸す。やがて絶えず笑っていた青海がふと顔を伏せたのを見たイワンは、少しばかり意地の悪い笑みを浮かべた。つないでいた手をひょいと持ち上げれば、つられたように顔を上げた青海の目元は真っ赤になっている。
「よ、酔っていましたのよ……」
「フフ、うん、そうだね」
 ワインを飲むどころか、今日イワンの前に現れてからずっと、青海にしては甘えた言動が目立っていたことを、イワンは黙っておくことにした。わざわざ恥をかかせるのは、紳士のすることではないので。かわりに、持ち上げたての指先とうっすら潤んだ目元にキスを落として、青海を抱きしめる。
「家まで……随分遠い気がするよ」
 青海の頬の熱に懐くように頬をすり寄せて呟くと、イワンはゆっくりとだが歩幅広く歩き出す。肩を抱かれて歩く青海の足音が、イワンのそれとテンポよく重なった。
「……寒いのなら、先にお風呂に入ります?」
「……のぼせちゃうよ」
「イワンさんが?」
「青海さんが」
 じゃれあうような問答で、青海が風呂よりも「先」にと望んでいるものを察して、イワンはクツクツと笑う。なんのことはない、欲張りな彼女は最初から、デートもそれも望んでイワンの腕に飛び込んできているのだ。
「今度は待たせないし、待たないよ」

お祭りお嬢様のシュリンピアお祭り記

この記事は、シュリンピアの2025年アドベントカレンダー企画で執筆したものです。

昔から、「同じお題で人それぞれ違うものが出てくる」という企画が大好きでした。
写真を提供して、それをお題に文章を書く、という企画の主催を隔週ペースで2年続けていた時期があったほどです。お題にする写真を撮るのも、参加者それぞれに感想を書いて回るのも、結構大変だったけど楽しくて。

シュリンピアは、絵描きと(潜伏気味だけど)字書き、3Dモデルを扱える人もいたりで、眺めているだけでも楽しい場所です。自分が創作をするのも好きだけど、人の創作を見るのも大好きだから、このサーバーに住み着いてよかったなと思っています。

本当に多彩な創作家たちが集まっているので、これを見ていて持病が疼いてしまったんですねぇ……「同じお題で人それぞれ違うものが出てくる」を、ここでやったらすごく楽しいんじゃないか……? と。

結果、出来心で「おい、アイドルやらねぇか」となりました。

アイドルってなんなのか。それもよくわからないまま、初回は「なぞったらそれっぽくなるかもしれない素体」という形での素材(お題)提供です。これもう2年前なのか、怖
かわいいかっこいいきれいなアイドルたちをたくさん見れてとてもはっぴー。

次がシュリンピア和装行列

今見るとなんかいろいろとこう……(過去絵アレルギー)ですが、これもたくさんのえびが乗ってくれました。シュリンピアの代理ちゃんたちや創作キャラ達の和装、壮観ですよ。ぜひタグを見て。

その次が水着祭り(2024)

素体ではなく、背景を提供する形での祭になりました。これがまあ、かなりご好評をいただいたように思います。とってもかわいい水着姿がたくさん見られてすごくおいしかった……。タグ見て……。

シュリンピアハロウィン2024

同じ年のハロウィン、こちらも背景の提供です。主役を置きやすく、ダークで不気味かわいいを目指したかった……んだと、思うけど、背景って難しいですわね。
でもやっぱりえびの皆様いっぱい乗ってくださって、本当にかわいい仮装姿をたくさん見ることができました。めっちゃ眼福。タグ見て。

シュリンピア軍服祭

これは完全に思い付きと趣味に走りまくった季節も関係なしの突発祭。やっぱり軍服ってロマンあるよね……。というわけで素体とざっくりしたデザインをご提供。お好きな人はお好きなお題なので、各々のこだわりが見れたりしてとっても楽しかったお祭りです。タグ見て。

ふりふり祭

これも趣味の突発祭。デザイン案として素体をお出ししたものの、自分含めたぶん誰も素体を使わなかった初めての祭りかもしれない。実はそれがちょっと嬉しかったりする。だって「ふりふり」ってお題で全員が本当に全然違う「オリジナルのふりふり」を出してきてるってことよ。最高。タグ見て。

シュリンピア春祭2025

また背景提供型の祭りに戻りました。ちょっとこれまで以上に力を入れて描いてみようと思った一枚ですね。シンプル一本道の桜並木、「道」をうまく使ってくれる人もいればめっちゃ近くに寄ってきてくれる感じで描いてくれる人もいて、文章参加してくれた人もいて、なんだか「ひろがったな」と思った回でした。タグ見て。

シュリンピア水着祭2025

水着祭2年目です。背景提供の祭のほうが多くなってきたか……?
グリザイユでグリグリしまくってやたらと存在感のある雲を描いてしまいました。こちらもとっても素敵な水着姿がたくさん見れます。本当に最高しかないからタグ見て。

2025シュリンピアハロウィン

執筆時点では最新の祭り、2025年のハロウィンです。……なんで年を先に持ってきた? 前年と統一するの忘れてましたね。
雰囲気重視で物理法則無視してそうな世界観出していこう! と普段と違ったテイストの背景をご提供。これもうまく使ってくれる人がいたり、雰囲気ぴったりしっくりに仕上げてくれる人がいて、背景提供冥利に尽きます。本当にありがとう、タグ見て。

こうして列挙してみると、思ってたよりお祭りやっていたような、まだこんなもんかという気もするような。作り手がいっぱいいると「ねえこれやってみない?」って誘ってみたくなるし、なによりシュリンピアには見て楽しんでくれる人がたくさんいてくれるから、作ってて本当に楽しいのよね。作りたいから作ってるんだけど、見てほしいから公開しているわけで。

これからもいろんな祭りをやっていきたいと思ってるので、気が向いたえびはぜひ乗っかってきてね。あと、わたくし発でなくてもお祭り大好きだから、「こういうのが見たい!!」って企画立ち上げてくれたら(今ちょっと忙しいから体力との勝負だけど)可能な限り乗っかっていきたい! です!!

年がら年中お祭りしてるサーバー、どう考えても楽しいでしょ(個人の意見)

以上、お祭りお嬢様のシュリンピアお祭り記でした。
ツラツラっとなんも考えずに書いちゃったけど、この記事も、お祭りも、楽しんでもらえたら嬉しいですわ。

紹介したお祭りのタグ、参加期間とか切ってないから、今から参加してくれても全然OKなのよ。

幽世の花

 障子越し、淡い春の日差しが差し込む部屋で、一人の青年が静かに正座している。やや日焼けしているもののイグサの香りを残した畳の上には、白地に青の釉薬がつややかな陶器の器に水が張られていた。青年は手に持ったハサミで花の茎を切り、花器に据えられた剣山へ花を生けていく。次の花を手に取り、ふと鼻先をかすめた香りに自分が呼吸を忘れていたことを思い出すと、一つ大きく息をついて、すっかり乾燥して上下ではりついた唇を舌で湿す。
 器にはスプレー咲きの小さな花が翼を広げるように枝を伸ばして生けられており、これから生けられるであろう大輪の主役を待ちわびているようだった。青年は、手に持った花をじっと見つめ、ほころんでいるつぼみのガクを指先で撫でる。いまだ咲ききらないその花は、紅白まだらの入った花弁が固いガクを押しのけていた。
 明日の昼にはすっかり開くだろう花とにらみ合うようにして、青年はぴたりと動きを止める。
 そうして、動かなくなってどれだけの時間が経っただろうか。
「露青(ろせい)、お昼ごはんができましたわよ」
 若い女の声が部屋に響く。障子が開かれ、縁側から直接差し込んだ日の光に照らされた青年――露青は、それでも微動だにしなかった。髪に咲く薄青の朝顔も、花を持つ手も、着物の袖一つさえ揺れない。
 彼が花の世界に没入しているのを見て取った、こちらも髪に青い朝顔を咲かせた着物姿の女――青海(あおみ)は、小さくため息をついて部屋に入り込むと、露青の隣に座して花器に生けられた花々をしばし眺めた。どうやら、主役となる花を据えることさえできれば、この作品は完成するようだ。
「ほどほどになさいまし。お昼はとっておきますわよ」
 聞こえているのか、いないのか。露青はやはり身じろぎ一つせず、花とにらみ合っている。青海は「でしょうね」とばかりに腰を上げ、静かに部屋から出て行った。

 とっぷりと日が暮れ、昼に声をかけてから一度も露青を見かけなかった青海は、改めて露青の部屋へ向かった。花を生け始めると寝食を忘れることは、露青にはままあることではある。しかし、青海は決してそれを是としているわけではない。集中しているところを邪魔するのは本意ではないため、食事の一度までなら見逃すが……元来体の弱い露青を栄養不足や睡眠不足で放っておけば、いつなにが起きるかもわかったものではないのだ。
 冷蔵庫に残ったままの昼食はさておき、そろそろ仕上がる夕飯は食卓に引きずり出してでも食べさせる、と息巻いて露青の部屋に来た青海は、障子に部屋の明かりが映っていないのを見て眉をひそめた。
「休む気になったのかしら」
 眠っているのであれば、急に起こして驚かせるのもよくない、と青海はそっと障子を開ける。夜空には星明りしかないが、室内はそれよりもずっと暗かった。障子を開けてもはっきりとは見通せない室内に、青海はきゅっと口を結んで壁へ手を伸ばす。
 明かりをつけると、そこには見事に完成された生け花の花器と、切り捨てた茎や枝葉に突っ伏すように倒れた露青の姿があった。
「露青!」
 駆け寄った青海が抱き起しても、露青は起きる気配がない。ぐったりと畳に放り出された手は冷え切っており、まるで死人のような顔色をしている。
 青海は恐る恐る露青の鼻先に手をかざし、それでようやく呼吸を確認して、大きく安堵の息を吐いた。
「だから、ほどほどになさいと言ったでしょうに……」
 頭痛をこらえるような顔をして、青海は露青を畳の上にあおむけで寝かせた。顔に張り付いていた葉をとりのけて、生けられた花を部屋の隅へ一時避難させると、紙の上に乗せられていた茎や枝葉をまとめる。それから押入れを開けて布団を敷くと、「せめて布団で寝なさい」と露青を揺すり起そうとするが、彼は一向に起きそうになかった。仕方なく彼の着物の帯を解き、襦袢姿にすると、半ば引きずり、半ば転がすようにして布団へ納める。
「手のかかる弟だこと」
 言いながらも慣れた様子で掛布団を整え、枕の位置を合わせてやり、青海は部屋の明かりを落とした。食事は起きてからでもどうにかなるだろう、と考えて、先ほどまとめた捨てる枝葉を持つと、部屋を後にする。
 露青は、翌朝になっても起きることはなかった。

 ***

 淡く光る、花の海。
 目を開けた露青は、無音の世界でただほのかに光を放ちながら揺れる花々を見上げて、その香気を胸に吸い込んだ。身を起こせば、あたり一面に多種多様な花が咲き乱れている。菊の真隣りに向日葵、薔薇に桜草、百合、牡丹、躑躅、木瓜、椿、鬼灯、露草。季節も植生も問わず無節操に咲く花のすべてが、盛りをきわめて一番美しい花姿を誇っていた。傷んだり萎れたりしているものは一輪たりとも存在しない。
 月も星もない夜空は、日の出まで二時間ほどと思しき薄明かりの色に濃淡がついている。
「ここは……」
 水を飲むことも忘れていたせいで、かすれた声が落ちる。よほど広大な場所なのか、音が反響して戻ってくることもなく、露青の声は目の細かい砂のように崩れて消えてしまうようだった。
 ぐるりと周囲を見回しても、あるのは花ばかりで、人工物や人間はおろか、生き物がいるような気配もない。
「……わたしは、とうとうあの世へ来てしまったのか」
 どうやら地獄のようには見えないが、とあごに手を当ててしばらく考え込んだ露青は、膝に手をついて立ち上がることにした。
 普段よりも格段に軽い体に、やはり肉体を置いてきてしまったようだ、と妙に冷静に考えながら、露青は足元の花をよけて地を踏み、ゆっくりと歩きだす。とげのある花々も彼の素足を傷つけることはなく、着物の裾に寄り添うように揺れて、光の粒を散らした。
「華道狂いが見る夢のような場所だな。……こうも季節を無視して咲かれると、いささか無粋なようにも思えるが」
 数分、するすると歩を進めても景色に変化はない。ただ、足裏に当たるひんやりとした土の感触だけが露青に現実感を与えていた。
「この花は、手折って生けることはできるのだろうか」
 身一つで歩いていて、花器も鋏もない露青は、足元に咲いていた水仙に足を止めた。花の機嫌をうかがうようにそっと撫で、できるだけ茎を傷ませずに折り取れるところを探っていると、ふと一歩先に金属質な光が見える。彼が不思議に思って草をかき分けた先には、いつか家の蔵で眠っているのを見た花鋏があった。
「……なぜ、ここに? 確かに家にあったものだが、蔵にあったものはかなり錆びていたはず」
 濡れたような艶を帯びて、花の光をまとった花鋏へ、露青は導かれるように手を伸ばす。すんなりと手の中に納まった鋏をまじまじと眺め、重さを確かめ、その刃を開いて閉じて……と空を切った。刃の鳴る音はしなかったが、滑らかに動く感触に露青は一つうなずく。
「なぜここにあるのかは知らんが、あるのなら使ってもいいのだろう。……生けたとて、それを見る者がいるとも限らんが」
 見渡す限りの花の海を前に、露青はじわじわとこみあげてくる笑みを隠さなかった。一度は無粋と評したものの、やはり現実では容易に成しえないような花の組み合わせを、思いつく限り試すことができるのだ。露青にとってはまさに夢のような機会であり、見る者はなくとも、この状況に心が浮き立つのも無理はない話だった。

 水仙、竜胆、節分草。薊、紫陽花、金鳳花。菖蒲(あやめ)に菫、金盞花。
 色とりどり、どれも月下に照らされているかの如く淡く光る花々は、あまりに容易に露青の手の中に納まった。不思議なことに、いくらか花を切って開けた土の上には、様々な色や形をした花器も現れる。
 まるで「使ってくれ」とばかりに手元に集まる生け花の道具は、どれも丁寧に扱われて磨かれてきた物の年季と誇りをまとっているようだ。
「わたしに、都合がよすぎやしないか?」
 ひとりごちながらも、露青は着々と集めた花と花器を選り分けていく。夜目にもまぶしく輝く白い陶磁器の花瓶に同じく白い水仙を、灰皿めいた重厚な黒い平皿には金に輝く黄花節分草を。透明で大きなガラスの平皿には紫陽花の大きな花の塊を囲うように小手毬をもこもこと置き、かと思えば吊り花瓶に凌霄花を生けて、吊る場所を探して松の枝にかけたり。計画もなにもあったものではなく、ただ見て合うと思った組み合わせを置いてはのけて、露青はひたすらに花を生け続けた。

***

 床の間に置いた花はすっかり開き切って、甘やかな香りを部屋に満たしていた。
 露青を寝かせた布団の傍らで、青海は静かに考え込んでいる。
「もう、丸一日……」
 倒れていた露青を布団に収めてから、彼は一度も目を覚ましていない。
 朝食の時間になって、起きてこない露青に朝の光を直撃させても、昼の時間に布団を引きはがして半身を起こさせても、彼は身じろぎどころか表情の一つも変えずに眠り続けているのだ。顔色があまり優れないのはいつものことではあるが、生気のない様相で寝息の音もなく静かに横たわるさまは、青海にとってあまり見ていたいものではなかった。幼少期から病がちだった露青は、幾度か生死の縁をさまよったことがある。その時と、今の彼はよく似ているのだ。
 家事をこなし、華道教室の生徒たちを教え、忙しく日常を回しながら、青海は度々露青の部屋を訪れては、彼の息と脈を確かめて胸をなでおろしていた。朝、昼と、露青が起きてくるものと考えて作った前日の食事を温め直して自分の胃に収めるたび、青海はかすかにため息をつく。夕刻に呼んだ医者は、「過労で眠っているだけでしょう」と言い、翌日になっても意識が戻らないようなら点滴の用意をしてまた来る、と帰っていったところだ。
「いい加減に、起きたらいかがですの」
 医者に診せて着乱れた襦袢を直し、布団をかけてやりながら、青海はぽつりとつぶやいた。
 露青は、やはりなにも応えず、眠り続けるばかり。

***

 露青はもくもくと花を生け続けていた。彼の足元にあった花、目についた花は順繰りに刈り取られ、ほかの花と引き立てあうように美しく生けられる。その度に、「次はこれを使え」とばかりに新たな花器が現れた。露青は公園でドングリを集める少年のように、周りを見ているようで花と花器しか見ていないまま、花の海をさまよう。
 花が刈り取られたところは、露青がしばらく目を離すとまた別の花で埋められていた。彼には自分がどちらから来たものかも判然としない。目印もない大海原に揺れる小船のように、ゆっくりと流されて移動を続けるばかりだ。
 洋の東西を問わず、およそ現代に存在する花で、なおかつ園芸品種であればなおのこと、露青は多くの花を見てきたはずだった。その彼の目から見て、この花の海には大きな違和感がふたつある。
 一つは、実物はおろか写真やスケッチですら見たことがないような花が存在すること。
 そしてもう一つ。
「これだけ花があって、朝顔だけが見当たらない」
 花の海を構成するのは、露青に馴染みの深い、観賞用として愛でられる園芸品種の花々が主だ。だというのに、日本における園芸品種改良の代表と言っても過言ではないだろう「朝顔」だけがなかった。
「桜も、菊もある。露草や時計草もあるのだから、一日花ゆえということはないだろう。……」
 露青は顎に手を当てて考え込み、それからしばらくして、自身の左側頭部へそっと手をやった。常日頃からそこに咲く、自身の象徴ともいえる花の感触。薄青い朝顔が、指先に触れる。
「……わたしか、あるいはわたし達が、朝顔だから……だろうか」
 ことここに至り、露青はやっと姉のことを思い出した。もはや尊崇の域で青海を慕い、自身の拠り所としてきた露青にしてみれば、ありえないことである。いくら花に目が眩んだとはいえ、「あの世に来たのか」と思いながら、片割れを失ってひどく憔悴しているだろう青海の心配一つ、頭に浮かばなかったとは。
 露青はようやく、獲物を狩るような眼で花々を見るのをやめ、深々と呼吸をした。
「……帰らなくては。姉上のもとへ」
 ここが本当に「あの世」であるにしても、露青に姉のことを忘れさせるような場所であるならば、自分がいるべき場所ではない、と彼は判断した。
「神か仏か知らないが、祖霊信仰の者を家から引き離そうとは、勝手なことをしてくれるものだ」
 聞くものが聞けば――どころか姉にも叱られそうなとんでもない悪態をついて、露青は手に持ったままの鋏を見やる。これはもともと、彼の家の蔵にあったもの。手に入れた場所も、最初に露青が目覚めた場所のすぐ近くだ。同じ場所から来たもので、きっと先祖に仕えた道具。この鋏を頼みにすれば、いつかは家へ、姉のもとへ帰れるはずだと目算を付けた。
「迷い子の鉄則は、その場から動かないことだが……よもやこんな場所まで、姉上(当主)に迎えを頼むわけにもいくまい。どうか、わたしを助けてはくれまいか」
 露青は鋏を捧げ持つようにして語り掛け、静かに目を閉じる。やがて再び目を開くと、花鋏は月もないのにつやりと光って、数歩先に咲いた芙蓉の花を映した。そっと近寄れば、幹の根元にはやはり花器が静かにたたずんでいる。
「生け続ければ、戻れるのだろうか」
 露青は花器を手元に引き寄せ、それから芙蓉の花を枝から切り取り、その場に座った。
「弓もないのだ。わたしにできることは、生けることくらいだろう」

***

 露青が目覚めなくなって、一日半が経過している。
 彼が起きたときにすぐ水や食事の用意ができるよう、青海は自室から露青の部屋へ布団を持ち込み、彼の隣で浅く眠った。しかし、日の出の時間になってもやはり目覚めない露青に、彼女の顔はかすかに青ざめて生気を失っている。
「……相変わらず、寝相のよろしいこと。一度起きてまた眠ってしまった、というわけでもありませんわね」
 口ぶりばかりは冷静に、しかしかすかに震える手で自分の布団をたたむ。
 ――このまま露青が、二度と目覚めなかったら?
 考えたくもないようなことが脳裏をよぎって、青海は小さく唇を嚙んだ。かろうじてそれを言葉に出すことはせず、浅くなりかけた呼吸を静かに整える。
「わたくしが、落ち着かないでどうしますの。お昼を過ぎたらお医者様をお呼びしますのよ」
 自分が万全でなくては、看病などできはしない。自身にそう言い聞かせて、青海は昨晩用意しておいた着物に着替え、身支度をする。きっちりと帯を締めてしまえば、どうにか体の芯を保てそうに思えた。
 腹が減ってはなんとやら、と朝食の支度をしに台所へ行こうとして、いまだに呼吸音すら乏しく眠り続ける露青を見下ろす。まぶたはおろか、まつ毛の先すら動かず、ともすれば精巧な人形にすら見えるほど冷たく整った寝姿に、青海は息を詰めて膝をついた。
「ねえ、……ねえ、露青、……起きてくださいまし、露青」
 そっと触れた頬は、血の気が引いて青海の手のひらよりも随分と冷たい。それがひどく恐ろしくて、青海は声を震わせ、露青を呼び続けた。額にかかった前髪をよけ、彼の髪に咲く朝顔の花に触れる。
「帰ってきたくないほど、幸せな夢を見ているの? ……お願いだから、わたくしひとり、置いていかないで……」
 今にも力尽きそうに俯いた彼女の瞳から、ぽつり。露青の朝顔へ、涙が一つ、落ちてはじけた。

***

 露青は、いくらか冷静に周囲を観察しながら、変わらず花を生け続けていた。一つ生けては歩を進め、一つ生けては花をかき分け、そうして新たに気付いたことがある。
 花器は、一度に一つしか見つからない。花器を追うことで、道が分岐するということはないようだった。
「道標、なのか」
 振り返っても、花を刈られて露出した地面は、新たな花の波に呑まれてかき消されている。しかし立ち上がって目を凝らせば、淡く光る花の海には、わずかに輝くかたまりがいくつも見えた。彼が花を生けては置いてきた花器が、灯をともしたようにぽつりぽつりと露青の足跡を示しているのだ。
 ひとつ前の花器へ戻ろうとすれば、花の海の輝きに呑まれて灯を見失う。諦めて一番新しい花器へ戻ってみれば、再び見えるようになった花器の軌跡は緩やかに弧を描いていた。
 そうして花の海をさまよって、どれほどの時間が経ったのか。空の様子も変わらなければ、空腹や喉の渇き、疲労もないため、露青にはどれだけここで過ごしたかが分からなかった。しかし、十ではきかない数の花器に花を生け続けて、相当の時間が経っていることは間違いない。
 帰るにしても、いつになるやら……とつきかけたため息が、すっと引っ込む。
 次の花器を探して顔を上げた露青の目に、最初に生けた水仙の花瓶が飛び込んできたのだ。
「戻って、来たのか」
 水仙は生けられる前よりもはっきりと輝きを増し、白く光っている。そして、その光に照らされるようにして、花瓶に絡みつく蔓が露青の目を引いた。
「朝顔……」
 朝顔の花には、この場所に咲く花々が放つ白くかそけき光は宿っていない。そのせいか、まるで光を吸い込むように周囲からは沈んで見えていた。
 気づけば、露青はゆっくりと足を進めて、朝顔の前に膝をついていた。導かれるように手を伸ばし、海の色をした青い花弁が宿す露に指先で触れる。
 その瞬間、この世界で初めて、露青の耳に自分以外の声が響いた。

――お願いだから、わたくしひとり、置いていかないで……。

 ひどく遠く、そして久しぶりに聞こえた姉の声に、露青はぐっと熱くなった胸を押さえて深呼吸をする。青海の声は静かだったが、同時に頼りなく震えていて、自分がどれほど心配をかけたのかが突きつけられているようだった。
「……姉上、あねうえ。すぐにそちらへ戻るから、もう一度、わたしを呼んでくれ……」
 きゅうと喉が詰まる感覚がして、露青の頬を涙が伝う。それは朝顔の花に滴って、ぽつりとはじけた。

***

 眠っていた露青の目元に、すう、と一筋、涙が伝った。
「露青? ……露青!」
 わずかに眉根を寄せた露青に、青海が必死で呼びかける。眠ってしまってから二日近く、表情一つ変えることのなかった露青の変化に、青海は起こすなら今しかないのではと彼の肩をゆすった。
「ん、う……」
 眩しさをこらえるようにまぶたに力が入り、露青はまつ毛を震わせた。かすれた声でうめいて、うっすらと目を開く。
「あ、ねうえ。少し、痛い……」
 着たままの襦袢にしわを寄せるように、きつく掴まれた肩の痛みが、露青をはっきりと覚醒させた。
「起きましたのね……!?」
 聞いているのかいないのか、青海は露青の肩を掴んだまま、新たに涙をあふれさせる。ぽた、ぱたぱた、と寝具へ降り注いだ雨の音を追うように、彼女は露青のかたわらへ崩れ落ちて顔を覆った。
「ああ、もう……!」
 ずっと同じ姿勢で眠っていた体が軋むのを、半ば無理矢理動かして、露青は青海のほうへ寝返りを打つ。寝返り一つで「はぁ」と息をついて、それから露青は静かに肩を震わせて泣く青海の背へ手を伸ばした。
「姉上が呼んでくれたおかげで、帰ってくることができた」
 ありがとう、と告げれば、青海は泣き顔に怒りをにじませて体を起こす。
「……ごめんなさいは?」
「こういう時はありがとうだと、以前……」
「……」
「申し訳なかった」
「よろしい」
 布団から身を起こした露青は、そのままふらりと立ち上がると、朝日が降り注ぐ縁側へと向かい、目をすがめた。庭へ降りようと外履きをつっかけようとしたところで、青海に後ろから腕を掴まれる。
「どこへ行きますの、起きたばかりで」
「蔵へ」
「後になさい」
 不満げに見返す露青の視線をものともせずに、青海は彼を部屋の中へ引き戻し、たたんであった彼の着物を広げた。
「誰もいないとはいえ、そんな薄着で朝から外に出るなんて。それに、二日も飲まず食わずで寝ていましたのよ? また倒れたら大変じゃありませんの」
 つらつらと真っ当なことを並べられて、露青には反論のしようもない。ほら、と広げられた着物に袖を通して、もそもそと着付けを始めれば、青海は満足げにうなずいて部屋を出ていく。
「急に食べたらお腹を壊すでしょうから、お吸い物を用意しますわ。朝食が済んだら、一緒に蔵に行きましょう」

 花の形をした麩が浮いた吸い物をゆっくりと飲んで、露青はようやく、体の実在を確かめたような気がした。食道、胃、と吸い物の熱が広がって、自分の体の輪郭が朝の冷たい空気から分離していく。向かいで味噌汁と卵焼き、白飯の朝食を口に運ぶ青海は、一口吸い物を飲むごとに顔の血色がよくなっていく露青を見て柔らかくまなじりを下げた。
「随分久しぶりのような気がしますわ」
「二日も経っているというのが信じられないのだが……わたしが生けた花は、もうだいぶしっかりと咲いていたな」
「あなたが眠っているうちに咲き切りましたのよ」
 食事を終え、食器を片付けると、二人で庭に出る。朝露の名残でつっかけのつま先を濡らしながら、整えられた庭を歩いて横切ると、庭の中でも隅のほうに、露青の目指す蔵があった。日当たりのよくないその一角に、静かに重々しく佇立する蔵は、姉弟どちらにとってもあまり馴染みのない場所だった。
「もう一つの蔵はよく使いますけど、こちらにはなかなか来ませんわね」
「お爺様が虫干しをしているのを見たきりだったはずだ。普段使うものは仕舞われていない……」
 母屋から持ってきた鍵で蔵の戸を開け放ち、風を通す。案の定、埃とカビの匂いが流れ出てきた。蔵の中にこもっていた空気が入れ替わるまで、少し二人で外を歩く。
「どうしてここに?」
「眠っている間に、花鋏を見たんだ。それに見覚えがあった」
「……ここに、仕舞われていたものですの?」
「ああ。だが、ここで見たときとは様子が違う」
 戸口から覗き込んで、蔵の中の空気が少しマシになっているのを確認すると、露青はそっと薄暗がりの中へ足を踏み入れた。木製の重厚な棚には、さほど多くの品物が仕舞われているわけではない。寸法も様々の桐箱がまばらに置かれているばかりだ。
 露青に続いて蔵に入った青海は、彼の後を歩きながらあたりを見回す。露青のお目当ては花鋏だというので、比較的小さな箱を探してきょろきょろとしていた。
「……おそらく、これだろう」
 蔵の中でも特に奥まった一角、棚の一番下の段で、露青はしゃがみ込んで小さな桐箱を取り上げる。筆で書かれた異体字は、どうにか「はさみ」と読めるようだった。露青は箱のふたをずらし、ちらと中を確認するとうなずく。
「戻ろう」
「閉じてしまいますの?」
「これを、蔵に戻す気があまりしなくてな」
 鋏の箱を持ったまま、二人は蔵を出て、戸に施錠した。
 露青の部屋へ戻り、改めて箱を開けると、そこには古びた絹布の上ですっかり錆びきった花鋏が眠っている。そっと手に取って、閉じた刃を開こうとした露青は、小さくため息をつくと首を横に振った。
「錆を落としても、もう使うことはできないだろう」
「でしょうね……」
 茶色くざらついた錆に覆われて、微動だにしない鋏は、なにも言わない。
「……やはり、あれは死者の記憶の世界だったのだな」
 花鋏を手にしたまま、露青がつぶやく。それを聞きとがめた青海は、キッと眉根を寄せた。
「どういうことですの」
 露青は静かに顔を上げると、姉と視線を合わせて、とつとつと語る。
「眠っている間……わたしは、華道狂いの見る夢のような場所にいたんだ」
 それは普通に露青が見た夢ではないのか、と青海は口を挟みかけたが、緩やかに語る露青に気圧されて、口を閉ざした。
「四季を問わず、植生も問わず、花という花がほのかに光って咲き乱れていた。どの花も一点の傷もなく、萎れているものもない。すべてが花の盛りの姿をしていた。……そうして、あたりを見渡すと、この鋏と、いくつかの花器があった。鋏は、錆一つない銀色をしていた」
 ひとつひとつ、自分が見てきたものをなぞるように、言葉にしていく。
「わたしが思うに、あれは、朽ちたものが……過日を懐かしんでいる、世界だった」
 花鋏は持ち主に丁寧に磨かれ、毎日のように使われていた日を懐かしんでいた。花器は花を生けられていた頃を懐かしみ、花は己が最も美しかった日を懐かしむ。そのどれもが、現実ではすでに朽ちて、「終わった」者たちだった。
「……すべてが完璧に美しい姿で、どんな花でも……見たこともないような花でさえ、手を伸ばせば届く場所にあって。できることなら、また」
「……そんなに、幽霊花がよかったの」
 ほう、と夢見るような瞳で死者の記憶の世界を語る露青に、青海がついに口を挟んだ。露青は困ったように眉を下げると、かすかに笑った。
「本当に一点の瑕疵もない、盛りの花ばかりだったからな。どんな季節の花も咲いていて、全部が月を透かしたように、淡く光って」
「季節外れの花も、伝手を辿れば見つかるものですわ」
「姉上は、一度それをやっておられるのだったな」
 露青は優しく花鋏を撫でて、絹布の上に戻す。
「姉上。大丈夫だ、わたしは生きている」
「死にかけておいて、なにを悠長な」
「言っただろう、姉上が呼んでくれたから戻ってこれたのだと。わたしがあちらで最後に見たのは、姉上と同じ色の朝顔だった。それだけは、他と違ってうすぼんやりとした光をまとってはいなかったんだ」
 露青は姉の髪に咲く朝顔を見て、眩し気に目を細めた。青海がはっとしたように、自分の朝顔へ手を添える。
「またいつか、あの花々を生けたいと思うのは本当だ。……だが、わたしは生きているから。枯れ朽ちるまでは、生きた花を生けるのが道理だろう」
 ゆっくりと、露青の顔には笑みが浮かぶ。さやさやと、部屋の中には昼前の柔らかな風が吹き込んできた。
「幽霊花の光は、それは美しいものだったが。今の私には、今を生きて咲く花の、命が光る強さが愛おしい」
 青海はしばらく黙って露青の目をじっと見つめていたが、深々としたため息とともに、がっくりと畳に手をついた。
「……本当に、世話の焼ける弟だこと」
「すまないな」
「それで、その鋏はどうなさいますの? 錆びたまま部屋にしまっておくのでは、蔵にあるのと変わらないでしょう」
「ああ。刃も欠けているから、使えるようにはならないだろうが……磨いて部屋に飾っておこうと思う」
 箱に収めた鋏をいつくしむように眺めて、露青はバツが悪そうに姉に目をやった。
「あちらで、な。当主を迎えに来させるわけにもいくまい、と助力を求めたら、姉上の朝顔のところまで導いてくれたのだ、この鋏は」
 いずれかの代の、この家の華道家が使った鋏なのだ。先祖に仕えたものであるなら、きっと今後も露青を助けてくれるものだろう、と彼は語った。
「生け花にとりつかれたわたしを、正気に戻してくれるかもしれない」
「その性分、本当に直してもらわないと困りますわよ。ひとまず今日からしばらくは、花にも鋏にも触れずに休んでもらいますからね」
「そ、そんな」
 花を生けるしか能がないのに、と当惑した露青をじっとり据わった目で見やり、青海はすっと立ち上がる。
「どうせ錆を落として磨くのなら、餅は餅屋、研ぎは研ぎ師ですわ。いつもお世話になっているところに連絡して、訳を話してごらんなさい。それから、あの蔵も」
 つらつら、と青海は今後の用事を露青に言いつけていく。
「わたくしたちの管理が行き届かずに、ご先祖が遺してくれたものを傷ませてしまったのは、とてもよろしくないことですわね?」
 露青は姉を見上げ、それからいくつか瞬きをして、くすくすと笑った。
「わかった、蔵の整理と掃除、出てきた物の手入れも引き受けよう」
「よろしい。……くれぐれも、無理をしないように」
 昼食はなにがよろしいかしら、と言いながら部屋を去っていく青海に、露青はようやく彼女の懸念を晴らせたと悟る。
「……ありがとう、姉上」
 静かになった部屋に、床の間で揺れた花だけが、露青の声を聴いていた。

露青の日記_02

ご近所の田中さんからスイカをいただいた。
大層立派なのを丸ごと一玉、姉上曰く「2人で食べなさい」とのこと。わたしの腹ではあまり涼を食べられないのだが……
姉上は書き置きに「わたくしの分も残しておいて」と書いてきた。ずいぶんわんぱく扱いされている気がする。
切り分けて少しかじったら、甘くて体の火照りが取れた。田中さんによくお礼を言わなくては。

昨日切り分けたスイカのうちいくらかは、姉上がミキサーでスムージーにしてくれた。少し塩のきいた冷たくて甘い飲み物は夏の盛りに口当たりがよく、調子に乗って飲みすぎたかもしれない。
この日記帳は少々裏写りするようだ。
読みづらくなるので、ぜいたくだが裏は使わず次のページに書くことにする。

もともと両親や姉上を困らせる程度に食は細かったが、ここ数年、特に夏は酷い。
暑くてとても食べる気になれないが、食べなければ余計に暑さでバテる。
かといって部屋や体を冷やせばすぐに腹を壊すのだから始末におえない。
自分の体のご機嫌伺にも疲れるが、姉上に諸々を助けていただいている身だ。
精々大崩れしないように調えていかねば。

露青の日記_01

誕生日を機に、日記を書くことにした。
日付は飛び飛びになるだろうし、続くかもわからないが、思い付いたときに思い付いたことを書く。
買ったばかりの日記帳は少し書きづらい。
本の形をしたものに、横書きというのも慣れない。
だが、自分の書いたものがひとかたまりの手に取れる形になると考えるとくすぐったいものがある。
わたしは日々、何を考えて生きているのだろうか。

シュリンピア入国2周年&暁姉弟誕生日

入国当時は職業訓練校に通っていて、朝に授業が始まる前にあわただしくアカウント作成して、休み時間のたびにLTLをうろうろしていた気がします。

帰りの電車で診断メーカー回して、出てきたキャラ案で代理として青海を作って……。

2年もたつ間に、青海は自我を得て「キャラクター」になったし、わたくしも無職だったり派遣だったり、アニメーションやったりイラストやったり、いろいろありました。

たくさんのえびたちに散々お世話になりました。
祭を起こせば乗ってくれるえびがいっぱいいて、なにかあって悲鳴を上げれば、なにくれと構って助けてくれて。

仲良くしてくれているえびたちに、感謝するばかりです。

入国当初より絵が上手くなったかもしれない。

グリザイユができるようになるなんて思ってもみなかったし。

お絵描きの機会がたくさんあるのも、描いた絵をいっぱい見てほめてくれる、楽しんでくれるえびたちがいるおかげです。ありがとうございます。

咬傷

※もしイワンさんが青海を咬んでしまうことがあったらIF

「……ッあ、」
 出かかった苦鳴が、痛みで喉に詰まる。前腕へ深々と食い込んだ牙が、ゆっくりと傷を広げないように抜けていくのを、唇を噛んで堪えた。
 真っ青な顔をして口を閉じることもできずに震えているイワンさんの肩に、無事だった手を添える。動揺で呼吸が乱れているのか、涙こそ出ていないが嗚咽なのか、しゃくりあげるような振動をなだめるように背を撫でた。
 詰めていた息を細く吐き出して、大きく吸って、もう一度吐いて、なんとか落ち着いた声を出せるように力を抜く。
 咬傷から目をそらせずにいるのだろう、私と目が合わないイワンさんの目元を指の背でそっと拭った。のろのろと顔を上げたイワンさんに、だいじょうぶ、と伝える。まだ声はかすれていたけれど、ちゃんと聞こえたらしく、震えていた視線がやっと私の目に移った。
「……オレ、」
「大丈夫よ、イワンさん」
 ゆるゆると首を横に振るので、私の腕を支えてくれていたイワンさんの手の中で、手のひらをゆっくりと上に向ける。
「い、今動かしたら」
 制止を振り切って、彼の手に支えられたままで手を握って、開いて、と傷よりも先にある手を動かした。傷口からは動きに合わせて血が溢れたが、そんなことはどうでもよかった。
「ちゃんと動きますわ。だから、血が止まれば治ったようなものですのよ」
 だから、と手近な布を傷にかぶせて押さえ、笑って見せる。
「お口が苦いでしょう。イワンさんはまず、お口をゆすいでいらして? わたくしは傷を洗ってきますから」
 両手がふさがっているので、トン、と額をイワンさんの胸元にすり寄せた。ね、と見上げれば、おずおずとうなずいて、イワンさんが震える腕で抱きしめてくれる。
「……ごめん、早く、手当てをしよう」

 大まかな止血が済んでから、内出血を抑えるために、少しきつめに包帯を巻いてもらった。
 腕を下げていては血が下りてしまってよくないのでは、と三角巾まで用意してくれようとするのを、さすがに大げさよ、となだめる。かわりに、じんじんと熱を持ち始めた前腕を冷やす氷嚢をお願いした。ガーゼと包帯越しに、氷水の入った袋がひんやりと心地いい。
 ほ、と息をついたところで、所在なさげにたたずんでいるイワンさんを手招いて、隣に座ってもらう。
「イワンさん」
「……」
 なにか言いたげな口を、そっと手で覆う、久しぶりに見た仕草。無理もない、気を付けていたはずなのに私の腕に噛みついてしまって、さっきの今だ。いくら口をゆすいだといっても、血の味はそうすぐに忘れられるものではないだろうし、牙が肉に食い込む感触も残っているのだろう。もともと、彼はひとを傷つけまいと大きく口を開くことはないし、顔周りに触れることを許しもしない。私がイレギュラーなのだ。
「わたくしね、イワンさんのこと、今でもちっとも怖くないですわ」
 イワンさんが喋らないので、私が勝手に話す。隣で微動だにしない大きな体へ、そっともたれかかった。
「イワンさんがワニだということ、忘れたことはありませんわ。それでも、目の前のワニは、イワンさんですのよ。わたくしのことを一等大事にしてくださる、強くて立派な、すてきな殿方」
 ぐ、と隣の体がこわばるのを感じる。もしかしたら、皮肉にも聞こえるかもしれない。私がそんな意地悪を言う女ではないと、きっとわかってくれているけれど。
「イワンさんはきっと、今日のことを、我慢がきかなかったと思っているのかもしれないけれど……わたくしはそうは思っていませんのよ。本当に我慢なんかしないで噛みついたのだったら、今頃わたくしの手は、骨ごとなくなっていたでしょう」
 想像してしまったのか、もたれかかっていた肩が揺れる。すり、とこめかみで懐くようにすり寄って、そっと目を閉じた。 
「……わたくし、きっとどこかおかしいのね。普通なら、血が出るほど噛まれたらそれだけで恐ろしくてたまらないのでしょうけど。腱も神経も無事で、飲み込まれてもいないのだから、わたくしを大事にしてくれるイワンさんは、噛みついた瞬間にも確かにいたと思うから、ちっとも怖くないの」
 隣で大きく息を吸う音がして、それから、そっと肩を押されてまっすぐに座り直す。並んで座ると立っているときよりも高さに差を感じないお顔へ視線を向ければ、迷子みたいな顔をして、ほんの小さく口を開いた。
「……キミは、少し……もう少しでいいから、オレを警戒して」
「イヤ」
「……」
 必死で絞り出したのだろう言葉に即答すると、イワンさんは困ったようにまた口を閉じてしまった。
「わたくし、イワンさんと隙間なくくっついて一緒に過ごすのがなにより幸せですの。紙一枚だって間に挟みたくないし、触れる距離にいられないなんて耐えられませんわ。……でも、わたくしが傷つくと、イワンさんが苦しいのも、わかっているつもりですのよ」
 氷嚢から手を放して、無事な手でそっとイワンさんの手を取る。緊張のせいか、いつもより少しひんやりしているようだった。
「だからね、わたくし、強くなりますわ。どんなに鋭い牙でも、届く前にかわしてしまえば怪我なんかしませんもの」
 名案、とばかりに自信たっぷりに言い切れば、ずっとこわばっていたイワンさんの体から、少しだけ力が抜けた。
「レディ……キミって、ひとは」
 ぽつ、といつもよりもだいぶ小さな声で落ちてきた呟きは、呆れとも諦めともつかない色をしていたけれど、それでもどこか嬉しそうだ。私に取られたまま、力なく握られていた手が、やんわりながらしっかりと意思を持って私の手を握り返してくる。
「……オレも、キミと……一緒にいたい」
「わたくしを逃がそうとしたり、わたくしから離れようとしたり、しないでくださいまし」
「ごめん、……わかったよ」
 わがままばかり、ごめんなさいね、と言えば、キミのわがままはオレにやさしいものばかりだ、と返ってきた。私が傷つくところを見たくないだろうに、傷つけてでも離れないでと願うことが、やさしいだろうか。
 なんだかぼんやりと頭が重くて、ゆっくりと瞬きをして、またイワンさんにもたれかかる。今度は少し体を傾けて、柔らかく迎えてくれたイワンさんが、ごそりと身じろぎをした。
「……青海さん」
「はい」
「妙に手が温かいと思ったけど、キミ、」
 大きな手が伸びてきて、額と目元を覆う。ひんやりとして気持ちがいい。
「……熱が出てる」
「あら……」
「あら、じゃないでしょ」
 怪我をした場所が熱を持つのは、ままあること。怪我が原因で全身発熱したことも、今までになかったわけではない。そんなこともありますわね、と思ったけれど、イワンさんにしてみれば腕の怪我が全身に影響するほどの大ごとだと改めて突き付けられたようなものだから、焦るのも仕方のないことだろうか。
「ちゃんと休んだ方がいい」
 もたれかかっていた体をそのまま引き受けるように、背中と膝裏へ手を回して、イワンさんは軽々と私を抱き上げてしまう。怪我をした腕と氷嚢を抱え込むだけで、首に手を回すこともしないでいるのに、滑り落ちそうな気配すらない。ベッドへ行くのに歩くくらいできるはずだけれど、今はめいっぱいイワンさんに甘えてしまおうと思った。

 少し眠ればすぐに下がるだろうと思っていた熱は、結局夜半まで尾を引いた。
 イワンさんは本当にずっとそばにいてくれて、額に浮いた汗を拭ってくれたり、氷嚢を取り換えたりと、かいがいしく世話をしてくれている。壊れ物を扱うようにそっと触れてくる手が、熱を持った肌にはひんやりと心地よかったものだから、触れてくれるたびについ甘えてすり寄ってしまった。
 そうこうしているうちに二人で眠りに落ちて、翌日。
 熱が引いた後のスゥと冴えた頭で、ガーゼを交換しなくては、と思い至った。止血が済んだにしてもにじみ出るものはあるし、同じガーゼを当て続けているわけにもいかない。
 ……怪我くらいそれなりにしてきたから、今更自分の傷を見るのが怖いとは思わなかった。最初に見た傷の具合と痛み方で、ある程度は今どうなっているのか察しがつく。ただ、処置をするためにイワンさんの手を借りることになるのが、心苦しかった。腫れて変色した肌をどうこう思われる不安などではなく、直後に見るよりももっとひどい状況を突き付けてしまったら、きっと彼は心を痛めるだろうから。
 目を覚ました姿勢のまま、包帯越しの腕を眺めていると、隣で起き上がったイワンさんが私の髪を撫でた。
「……おはよう、青海さん」
「ええ、おはよう、イワンさん」
 いつも通りの朝の挨拶、額に落とされたキスに、忘れものよと私も起き上がって唇へキスを返す。
「傷は、痛むかい」
「思っていたよりはずいぶん楽ですわ」
 牙の抜き方とその後の処置がお上手でしたのね、と笑えば、イワンさんは困ったように笑って私の額に触れた。熱が引いていることにほっとした顔をして、寝乱れた髪を手で梳いて軽くまとめてくれる。
「……手当てをしようか」
 私は余程不安そうな顔をしたらしい。イワンさんは眉を下げて私を抱きしめた。
「準備が……できたら、すぐに戻るよ」
 そう言って寝室を出ていったイワンさんを見送って、軽く包帯の上から傷を撫でた。どうか、この傷が昨日以上にイワンさんを苦しめないように、と祈る。祈ったところでどうなるものでもないけれど。
 イワンさんは本当にすぐに戻ってきて、必要なものを使いやすいように広げると、一言断って包帯を解き始めた。重なっていたところを解き終わって、肌が見えてくると、一瞬手がこわばる。傷口からはかなり遠いところまで、肌が変色していた。
 動揺は一瞬で、手早く包帯を解き終わると、綿菓子や糸のような飴細工に触れるよりもなお慎重に、ガーゼを剥がしていく。
 予想していたよりも、少し、状態は悪かった。
 剥がしたガーゼに固まりかけの滲出液を持っていかれた傷口はまだ新しく、じくじくと膨らんでいる。前腕は全体的に腫れているし、青紫や赤の内出血でまだら模様になっていて、一目見て痛々しく悲惨なありさまだ。付け焼刃のお祈りはなんの役にも立たなかったらしい。
 イワンさんは、私の腕から目をそらさないまま、一つ深呼吸をして、そのまま処置を続けた。傷の周りを慎重に拭き清めて、新しいガーゼを乗せて固定し、痛みがないか様子を伺いながらくるくると包帯を巻きつけていく。その様子がまるで、息を止めたまま長い長い距離を泳ぎ切ろうと必死に水を掻く人のようで、見ればわかるほどに歯を食いしばっているものだから。
 気が付けば、わたしは処置が終わるまでを、息を止めたままじっと見ていた。
 巻き終えた包帯の端をしまい込んで、使った道具をてきぱきと片付けたイワンさんは、少し放心しているようだ。
 止めたままだった息が苦しくて、は、と大きく吸うと、音につられたのかイワンさんがこちらを見た。ベッドの端に腰かけていたのを、少し奥へ引っ込んで、イワンさんがベッドに乗れるようにスペースを作る。
 そうして、両腕を広げて「イワンさん」と呼ぶと、彼はふらふらとベッドへ膝をつき、私に抱き着いてきた。
「わたくしより痛そうなお顔なさってますわよ」
「……オレが、キミを傷つけたんだ、って、……こんなに、ひどく……」
 ぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。怪我をしていない手で背中を撫でると、イワンさんは私の肩口に額を預けて、ぽつぽつと続けた。
「こんな、……強くて大きなワニに、なったと思ったのに……キミを守りたかったはずなのに、オレが、キミを……」
 じわり、じわり、服の肩が湿っていく。泣いているの、とは、聞かなかった。
 程度の話ではなく、私を傷つけた、という事実に苦しんでいるのがわかるから、口を挟まずに、ただ耳を傾ける。
「……ごめん」
「ええ」
「……ごめん、青海さん……」
 いつもの、包み込むような抱きしめ方とは少しだけ違った。あんなに器用な手先が、彼には細くて頼りないだろう背中へ不器用に縋ろうとするのを感じて、抱き返した手に力を込める。
「謝罪を受け入れますわ」
「うん、……うん……」
 服の湿り気はどんどん重く広がっていった。イワンさんは声を上げることもなくて、ほかに出口を見つけられない苦しみや悲しみが、すべて涙になっているかのようだ。私はただ、イワンさんの背中を、届く限りで撫で続けた。

 脱水が心配になるくらい泣いていたイワンさんは、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったらしい。すう、と健やかな寝息が時々しゃくりあげるように震えるほかは、平穏そのものだ。力の抜けた体は重く、私も安心したのか少し眠くなる。
 ゆっくりと体の向きを変えて、横並びになれるように一緒にベッドへ寝そべった。ほとんどは私の服が吸っていただろうけれど、それでもイワンさんの目元には涙の痕がある。乾ききってしまう前に指の背で拭って、顔にかかっていた前髪をよけて頭を撫でた。
 夜に眠って、さっき起きたばかりだ。イワンさんも私も、きっとすぐ目が覚める。おそらく喉が渇いているだろうけれど、飲み水を用意するのは起きてからのほうがいいのだろう。体勢を変える間も、イワンさんは私からちっとも離れようとはしなかったから、このまま一緒に二度寝をしてしまおう。

「おはよう、イワンさん。……ちゃんと目が開くかしら。氷嚢がもう一ついるかもしれませんわね」

UFO

 ある年の、雨期もそろそろ終わるころ。
 夜空を見上げていた白いワニは、月でも星でもない光を見た。
「あれは……なんだ?」
 ひとりごちると、隣に蔓を延べていた朝顔が揺れる。
 フラフラと不規則に動き回った光は、やがてワニの真上にぴたりと止まった。カ、とスポットライトのようにひときわ強い光が降り注ぎ、白いワニの鱗が輝く。
 おや、と思っているうちに、ワニは自分の体が浮き上がるのを感じた。
「待ってくれ、どこへ行くんだ」
 わたわた、と四肢を動かすが、ワニはみるみるうちに地面から離れ、光の柱の中を引き上げられていく。
 すると、朝顔の蔓がひょろりと持ち上がり、ワニの方へ伸びた。
「つかまってくれって? キミまで道連れに……」
 朝顔はワニの言葉など聞かない素振りで、さらに蔓を伸ばす。
「千切れてしまうかもしれないよ」
 ワニが言うと、朝顔は一瞬動きを止めて、それからぐっとワニが浮かぶより早く蔓の先を上に伸ばした。前脚でつかむような位置ではないことに戸惑ったワニが、蔓の先を見上げると、蔓はひゅるりとワニの口吻に巻き付いた。
 ――余計なことばかり言うお口は、ふさいであげましょうね。
 細く、すぐにでも千切れてしまいそうな朝顔の蔓のはずが、ワニはもうそれ以上口を開くことができなかった。クン、と上に向かって引っ張り上げる力と、朝顔が引きとめる力が拮抗して、ワニの動きが止まる。
 しばらくそうして引き合って、朝顔の根が土から引きずり出されそうになったころ。ワニが前脚を蔓に添えて、どうしたものか、いっそこのまま一緒に、と考え始めたところで、降り注ぐ光が弱まった。
 ゆっくりと地上に戻されたワニは、口に巻き付いた蔓をそのままに、さっきまで自分を連れ去ろうとしていた光をちらりと見上げる。それは先ほどと同じように、フラフラと不規則に動いて去っていった。
 蔓は一度だけぎゅっとワニの口吻を締め付けてから、するりとほどけてそっぽを向く。
「……怒っているのかい」
 ワニがそっぽを向いた朝顔を追いかけて、移動した。朝顔はそれでも意地を張って花(おもて)を伏せたが、ワニが鼻先で持ち上げるとくすくすと笑う。
「悪かったよ」
 ――あら、それはなにが?
「キミを置いていこうとしたこと」

6/24がUFO記念日だったそうなので。

人狼の愛娘

さかなのにがにが.さんのお誕生日祝いで書いたお話(2025)です。人狼探偵事務所とニカちゃんのクロスオーバー作品になります。

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1.万年筆と探偵帽

「あ、ニカちゃん」

 会えてよかった、とへらりと笑った男に、ニカはぴょんと階段の最後の段を飛ばして上り、飛びついた。

「冥くん!」

 パック探偵事務所の扉の前。冥と呼ばれた、扉の上端に頭がつきそうな大男が、飛び込んできたニカを軽々と抱きとめる。

「冥くん、こんなところで何してるの?」
「ニカちゃんに会いに来たんだよ」

 ドア開かないから帰るとこだった、と言うのに、ニカが首を傾げた。

「開いてないの? さっきまでみんないたのに」

 見れば確かに、ドアのガラス窓にはひんやりとした薄闇が透けて見えている。電気がついていないようだった。

「ニカ、カギ持ってるよ」
「開けてみる?」
「待ってね……」

 ニカがカギを開けると、やはり人の気配のない事務所がシンと佇んでいる。

「やっぱり誰もいないみたいだね」
「パパー? かくれんぼ?」

 消灯された事務所はもの寂しく、普段は人数のわりに賑やかな場所だというのに、全く違った様相を呈している。ぱたぱたと小さな足音を立てて廊下を端から端まで歩いて、ニカは事務所内に存在する部屋すべてをざっと眺めた。慎ましい給湯室、ロッカー、事務室、応接室……その数十歩のなかでかすかな違和感を覚えた事務室のデスクへ向かう。

「パパのデスク、ものが置いてある」
「ほかの机にもいっぱいもの置いてあるけど」
「それはいつも。パパのとこだけは絶対散らからないの」

 目の見えないシュタインは、散らかすと混乱するから、と机の上は常にまっさらに片付けている。だというのに、今日は一筆箋と万年筆がぽつねんと置かれていた。

〈ニカへ カギを探して辿っておいで パパより〉

「……カギ?」
「どうしたの、ニカちゃん」
「パパ、やっぱりかくれんぼみたい。捕まえてごらんって」
「ふーん、なるほどね……?」

 もとから眇めている目をもっと細くして、冥は自分の顎をさする。まあないと思うけど、と前置きをして、ゆっくり口を開いた。

「普段しないことをしてるってことは、これを置いたのは他人だったり」

 蛍光灯に紙を透かすようにしてまじまじと一筆箋を観察し、ニカは確信する。やや右肩上がり、少し角張って不格好にところどころ重なった文字。日本語は書き慣れていないんだ、と言っていた……

「んーん、これはパパの字だよ。それに、いつもパパが使ってる万年筆のインクの匂い」
「そんなのまでわかんの? すごいじゃん」

 誇らしげに胸を張ったニカの頭を反射的に撫でながら、冥は首を傾げた。

「じゃあ、このメモ書くのに使った万年筆にわざわざリボンつけて置いてんの?」

 大きな手が指さした万年筆に目をやって、ニカがやはり首を傾げる。冥の想像した不自然な行動よりも、万年筆そのものへの違和感。手にとって、矯めつ眇めつ転がして、はたと気づいた。

「……色はおんなじだけど、パパのはもっと長いよ。……あれ? え。これ、ニカのお名前書いてある!!」

 ニカが言う通り、リボンで飾られた万年筆の軸には、金字で「Nika.S」の刻印があった。

「って、ことは、これニカの……?」
「違うの?」
「ニカ、万年筆なんて持ってないもの」

 冥は、戸惑っているニカの手元を覗き込むように腰を曲げ、それからニカを見上げて笑った。

「じゃ、プレゼントなんじゃない? リボンもついてるし」
「なんで急に」

 怪訝につぶやくニカへ、冥はため息をつく。

「お誕生日でしょ、今日」
「……あーっ!」
「まさかとは思ってたけど、忘れてたの?」

 だってだって、と言うものの、それらしい理由も見つからなかったらしいニカが、ぷくと頬を膨れさせた。冥は彼女の両頬を指でつまむようにふくれっ面を茶化して、背筋を伸ばす。

「プレゼントだけじゃなくて、探偵ごっこも込みかぁ。やられたな」
「ごっこじゃないよ、ニカも探偵さんだもの!」
「おっと、失礼。じゃあ、名探偵さんに俺から」

 妙に小さく見えるメッセンジャーバッグから取り出した包みを、ぽすりとニカの手に置いて、冥は笑った。開けていい? と目を輝かせるニカにうなずいて、黙って開封を見守る。

 包みから出てきたのは、「探偵の帽子」と言われれば多くの人が思い浮かべるだろうチェック柄の生地。シルエットに少女らしい甘さを持たせた、キャスケットだった。

「探偵っぽくて、ニカちゃんに似合うやつ、と思ってさ」

 いつもの服が親父さんと揃いの茶系だし、とポケットからスマートフォンを取り出す。かぶって見せてよ、と言ってカメラを起動し、両手で帽子を持って頭に載せてみたニカを撮影した。

「これを渡しに来てくれたの? ……似合う?」
「さすがニカちゃんだよね、めちゃくちゃかわいい」

 見せて見せて、とニカが覗き込んだスマホの画面には、照れ笑いで淡く頬を染めた少女が映っている。服とかよくわかんないなりに、結構いいの選んだんじゃない? 俺。と満足げな冥に、ニカはフフンと笑ってから帽子で顔を隠した。

「……ありがと、冥くん」

 お部屋の中だけど、すぐ出るし、と言いつつ帽子をかぶったまま、ニカは万年筆を観察する。見れば見るほどシュタインが普段使っているものとそっくりのデザインで、おそらくはニカの手のサイズに合わせた揃いのものを調達したのだろう。

「万年筆ってどうやって使うもんなの? これ、すぐ書けんのかな」

 言われてキャップを外してみたニカは、添えられていた一筆箋の端にペン先を滑らせてみた。が、インクは出ない。

「インク、入ってないのか」
「ん-、パパがバラバラにしてインク入れてるのは見たことあるけど……」

 どうやってたっけ、とキャップを脇に置いて、ペンの継ぎ目を探す。ニブの付け根、持ち手の部分と軸をつまんでひねると、ねじになっている継ぎ目が外れた。

「開いた! ……なんか入ってる」

 カサ、とカラのコンバーターと一緒に引き出されてきたのは、墨の香りのする半紙の切れ端だった。くるくると巻かれていたせいで、巻き癖がついてリボンのようになっている。

「なんか書いてあるよ」
「点と、線?」

・―――――・-・・・・-・・――――・・・・・・-・・――・――・

「……なんだろう。多分なにかの暗号だけど、これだけじゃわかんないよね」

 大して長くもない半紙の巻きを伸ばして、灯りに透かして見るが、見えるのは墨で書かれた点と線だけ。開けた万年筆のボディを振っても、それ以上なにも出てこなかった。

「よし、みさきおにーちゃんの神社に行こう」
「神社? なんで」
「なんにもわかんないけど、この事務所で半紙と墨を使うのは、みさきおにーちゃんだもの。パパが『鍵を探せ』『辿っておいで』って言ってるんだから、足を使って探しに行かないと」

2.ワニの懐中時計

 ジャマじゃなければ、俺もオトモしていい? と言う冥と手をつないで、ニカは事務所から出た。戸締りを確認して、階段を下りる。

「あの人、神主さんなの?」
「みさきおにーちゃんは宮司さんなんだって」

 違いが解らない男の顔をしている冥の手を引いて、ニカの足取りは軽い。いくらか歩いて、バスに乗って、降りてからまた歩いて、さほど時間もかからずに木々に囲まれた石段の前に到着した。

「ついた!」
「ニカちゃん、こんな階段上れるの?」
「ニカは赤ちゃんじゃないんだよ、冥くん」

 大きすぎる足のせいで、階段に苦戦したのは冥のほうだった。下りは尻で滑って行ったほうが早いかも、と益体もないことを考えているうちに、ニカは手水舎で手と口を清め、拝殿にあいさつに向かっている。

 賽銭箱の横に置かれた参拝の作法をなぞったところで、かたわらの社務所から一人の老婆が現れた。腰の曲がった小さな体で、腰に手を組んで出てくると、ニカに目を留めてにっこりと笑う。

「あらあら、もしかしてあなたたち、深祥の勤め先の人かい」

 ゆっくりとした朗らかな口調に、ニカもパッと笑顔になって返事をした。

「はい! 坂南ニカです、みさきおにーちゃんにはいつもお世話になってます」
「坂又冥です」

 ニカのおまけのように名乗った冥を見上げた老婆は、顔の位置の高さに驚いたように目をしばたたいた。それからまた、しわくちゃの顔をほころばせて笑う。

「おりこうさんたちだねぇ、深祥の言ったとおりだ。こちらこそ、息子がいつもお世話になっているね」

 あの子がまさか、おにいちゃんだなんて呼ばれてるとは、と老婆はしみじみとうなずいた。遅くにできた末の子の、さらに年若い妹分となると、老婆にとってはもはや孫より若い。

「みさきおにーちゃんのお母さん?」
「そうだよ」

 ばあちゃんと呼んでいいよ、と調子のいいことを言いながら、老婆は二人に少し待つように伝え、社務所の玄関へ引っ込んでいく。ちょこちょこと小さな歩幅で行って戻って、再び出てきた老婆の手には小さな紙袋があった。

「ニカちゃんが来たら渡してくれって頼まれてたのさ」

 シンプルな白い紙袋からは、中身の予想ができない。ただ、中に入っている箱は手鏡程度の大きさというのが、覗き込めば見えるだけだ。

「ここで開けて見てもいい?」
「もちろん。あの子、なにか悪戯を仕込んだようだからね。ゆっくりしておいき」

 社務所の裏手には狭いが縁側があった。案内されたニカが帽子をとって冥と並んで座ると、老婆が冷茶を持ってくる。氷を浮かべた緑茶が、湿度の高い梅雨時の暑さに倦んでいた頭を冷やした。

 紙袋から取り出した箱を開ければ、入っていたのはニカの手のひらに収まる懐中時計だった。ふたには口を開けたワニが身をひるがえしている図がデザインされており、かすかな秒針の音が、静かな重みをもってニカの手の中に時を刻んでいる。

「きれい……」
「あんな堅物~! って顔でこんなの選んでくるんだ、あの人」

 ニカの小さな手のひらにフィットする程よい丸みを帯びたふたは、留め金を押すとぱかんと軽い音を立てて開いた。線の細い文字盤と時針を覆ったガラス板から、紙が滑り落ちる。

「あ」
「ヒント?」
「多分……」

 今度は半紙と墨ではなく、小さくたたまれた一筆箋とボールペンの字だ。とばりにぃにの字、と一目で断定して、ニカはそれを目でなぞる。

「……とばりにぃに、ちょっと意地悪してる」
「意地悪って? あの人そんな感じだっけ」

 冥もニカの手元を覗き込んだ。そうして、あー、と顎に手をやる。

「漢字多いな」
「どうやって読むの、これ」
「俺もわかんないのある……」

 紙に書かれていたのは、さほど長くはない詩のようなものだった。

幼気な/若き/緑の/強かに/生ず/命を/言祝ぎて/栗花落の跳ねる/雨滴の舞踏/射干玉にふらむ

「わかきみどりの……つよ……かに……」
「なま、って字にずって送り仮名使う?」

 二人で額を突き合わせるように紙とにらめっこする様を、老婆が微笑まし気に眺める。おばあちゃん……と縋るような目を向けられると、老婆は困ったように笑って二人に一つずつ飴を渡した。

「深祥は『ここまで来たなら次もわかります、口出しは無用』って言ってたね」

 社務所の表から声をかけられて、老婆はしわしわの手でニカの頭を撫でてからぱたぱたと去っていく。当のニカは、深祥の言葉を聞いて少し難しい顔をして考え込むと、ハッと顔を上げた。

「とばりにぃにの学校行こ」
「え?」
「半紙と墨だけでみさきおにーちゃんの神社に来て合ってたんだから、とばりにぃにの字ってだけで学校まで行っても多分大丈夫でしょ」
「なるほどね、読めなくてもヒントにはなってるってわけ」
「とばりにぃには古くてむずかしい日本語のお勉強しに行ってるって言ってたから、学校の人に聞いたら、なにかわかるかもしれないし」

 縁側から立ち上がり、意気揚々と歩きだすニカの後を歩きながら、冥は登ってきた階段のことを思い出した。あれを下るのか、と思っているうちに社務所の表へ戻ってくる。御守りを並べている老婆にニカが「ありがとう、またね!」と手を振って、すたすたと階段を下りていくので、冥も仕方なく老婆へお辞儀をして階段を下るのだった。

3.服と組紐

 妙に疲れた顔をした冥と一緒に電車に揺られながら、ニカは改めて帳の詩を開いた。

「とばりにぃに、今日は午前だけ学校だって言ってたから、もしかしたら本人を捕まえられるかも」
「それで答え教えてくれるもんかなぁ」

 おさらいしよ、と点と線の半紙と詩の紙を並べて、改めて眺める。

 暗号メモの主がいそうなところへ行けば、次のヒントが手に入る。おそらく、全部のメモを集めると暗号が解けるのだろう、とニカは推測した。

「パパのは暗号じゃなかったけど、なにをしたらいいか教えてくれたでしょ。みさきおにーちゃんと、とばりにぃにのメモがこれ。あとはかさねぇねだけのはず」
「あと一個メモ出てきたら、全部の答え出んの……?」
「……もしかしたら、次のを見たらさっきのがわかるかもしれないし……!」

 ミ、と顔をしわくちゃにしながら、ニカは二枚の紙を睨みつけた。全く関連がなさそうな二枚だが、きっとなにかしらがつながっているのだ。

「……つながっている、といえばだけど」
「なぁに、冥くん」
「やっぱりこれ、つながりすぎじゃない? さすがにどっかで切るんだと思うけど」

 冥が指さしたのは点と線の半紙だった。確かなにかで見たことがある、と記憶をひねり出すべく険しい顔をする冥に、ニカもしばし考え込む。

 ふと思い出されたのは、ある日かさねがやたらと指で机を叩いていた時のこと。深祥に「うるさいしお行儀が悪いですよ」と叱られていたのはともかくとして、不思議なことを言われていたのも、ニカは覚えていた。

「……かさねぇねはなんにも言ってなかったし元気だったのに、『眠いなら仮眠でも取ったらどうですか』って言われてたっけ。そのあとほんとに寝てたし……ねえ冥くん、机叩いたりして音を出して言葉を伝えることってできるのかな」
「ん-……あ、これかも……?」

 小さな画面に手を余らせながら、冥が示したのはスマホの画面だった。検索結果には深祥の半紙とよく似た点と線が並んだ画像があり、「モールス信号」と表示されている。「モールス信号」で検索をかけ直せば、いくつも解説記事がヒットした。

「点と線を入力したら言葉に変換できるサイトもあるみたい」

 モールス信号をざっくりと調べてみたものの、日本語、英語で信号の区切り方は異なっているらしく、記号がいくつで区切りになる、とも言えないようで、二人は顔を見合わせた。

「合ってそう……合ってそうだけど、どこで区切るのかわからないとなんて書いてあるのかわかんないよ……」
「そのヒントがこれなんじゃないの」
「かんじむずかしい」
「それはそう」

 つん、と口を尖らせたニカに、しょうがないね、と冥は大きな手で背中を撫でる。区切り、区切り……とつぶやいて、詩の紙を指先でなぞれば、言葉が妙に短く区切られているのが目についた。

「……数が大事?」
「点と線いくつで一文字分か、って考えるんだったら、ヒントは数字になりそうだよね」
「数字かぁ……」

 読めなくても次に向かうべき場所がどこかが分かるなら、もしかしたら読めなくても見ただけでわかるヒントかもしれない。そう考えたニカは、まずは区切りごとの文字数を数えてみることにした。

「3、2、2、3、2、3、4、7、5、7……」
「合わせたら点と線を全部足した数より大きいよ、ニカちゃん」
「じゃあ違うじゃん……」

 では漢字だけの文字数を、と数えてみても、今度は点と線が盛大に余る。本当にモールス信号で合っているのか……? と疑念を生じ始めたところで、車内アナウンスが帳の通う大学の最寄りについたことを知らせた。あわあわと席を立って降車する。

「すっごい、なんにもわかんない」

 眉間にしわを寄せたまま改札を通りすぎ、そのまま駅前通りに流れれば、ものの数分で大学の正門が見えてきた。やや古びて見える門からは、午前の講義を受け終えたらしい学生たちがぞろぞろと出てきている。

「こうなったらとばりにぃに捕まえて、ヒントもらわなきゃ」
「多分一番チョロ……ンン、やさしいだろうしね」

 この大学の学生でもない二人だが、冥は戸惑うそぶりすら見せずに門をくぐったし、ニカは門の側に立っていた守衛に手を振って挨拶までした。年配の守衛は、いかめしい顔を緩めてニカに手を振り返す。

「ご用事かい」
「お兄ちゃんに会いに来ました!」
「そうかい、足元に気を付けてね」
「はーい!」

 元気に返事をして冥に追いつくと、冥は少しニカを見下ろして、感心したようにつぶやいた。

「慣れてんね?」
「かさねぇねがね、にっこり笑ってお手々振ったら通してくれるところいっぱいあるよって」
「おお、英才教育」

 昼休憩で講堂から出てきた学生の人波は、ニカでは見渡すのが難しい。はぐれないようにと冥と手をつなぎ、「とばりにぃに、いる?」と尋ねれば、冥は元から高い背をさらに少し背伸びして、ぐるりとあたりを見渡した。

 モサモサとした黒髪やら、奇抜な色に染められて大胆にシャギーの入った髪やら、多くの頭を見下ろしてから、冥はニカをひょいと抱え上げた。

「わっ、冥くん!?」
「あれ、違う?」
「あ、いた! とばりにぃにー!」

 冥の肘に腰かけるように抱き上げられたニカは、ぱや、とした明るいきつね色の頭を見つけると、ぶんぶんと手を振って帳を呼んだ。学友らしきとがったセンスの古着の男と並んで歩いていた帳は、一瞬顔を引きつらせて彼女のほうへ視線をやる。肘でわき腹をつついてきた隣の男を睨んでから、タッと身軽に走ってきて、空いていた冥の片手首をつかみ、人気のないほうへ引っ張っていった。

「ンな目立つ登場するのアリっすか」

 これじゃ明日からしばらくあだ名が「にぃに」っすよ、とぼやきながら、すとんと地面に降ろされたニカの頭を帽子越しに撫でる。

「もうここまでたどり着いたんすね」
「どんくらいかかる想定だったの」
「夕方までだったら待ってたっす」

 冥の問いに答えながら、帳は普段の通学に使っている鞄とは別に持っていた紙袋をニカに差し出した。

「でもまあ、こんなに早く俺のとこまで来たんだから、こっから先はすぐっすよ」
「ウソだぁ」

 現在進行形でさっぱり解けない謎を抱えたままのニカは、思わずそう口走る。

「まだなんにもわかんないよ」
「だーいじょうぶ、わかるわかる。この中、最後のヒント入ってるし」
「やっぱり次が最後?」
「そっす」

 差し出された紙袋を受け取って、ニカはそれをそっと抱きしめた。ガサ、と音がして、中身が柔らかなものであることを知る。

「それは俺とかさねさんから。んじゃ、答えの場所で待ってるっすよ」
「え、待って、とばりにぃにのヒントなんにもわかんない!」

 とっさに帳を引き留めたニカの声が、思いのほか真に迫って困った様子だったので、帳は目を見開いて二人を見比べた。

「えっ、そこのおっきいシャチ漢字読めない系!?」
「最初から俺アテにしてたの!? 海育ちにはキツいって。ってかやっぱり漢字読めないとわかんないやつか」

 さっさと退散しようとした帳が、少し悩むように足を止めた。このまま放置しても、おそらく二人は予約の時間までに答えの場所にたどり着きはするだろう。が、ここは帳の通う大学で、周りには級友も多くうろついており、彼らの多くは帳の書いた漢字を容易く読むはずだ。ニカの人懐っこさを考えれば、うたに描かれた本人が持った、帳作のうたが、学内に広まることになる可能性は、それなりに高い。

 帳は、選択を迫られた。自作のうたが学内関係者に見られるか、自分で作ったうたを自分で解説するか。アー、とうめきながら頭を抱えて数秒考えこむと、帳は首にかけていたネックレスに触れた。

「いづな」
『イーヤーじゃ、おぬしが自分で語ればよかろう』
「一週間お稲荷さん献上するっすから」
『ふむ、ならよかろう』
「漢字の読み方だけ教えたらさっさと戻ってこいよ」
『わがままじゃの、追加注文のお代は?』
「ン~今日のデザート俺のもやるから」
『話は決まりじゃ』

 姿は見えないものの、ニヤニヤとした調子の幼い声が帳といくらかのやり取りをしている。

 嫌々ながらデザートを譲って、参った様子の帳の首元から、ひょろりと蛇のように細長い狐が現れ、次の瞬間「ポン」と音を立てて狐耳の少女の姿をとった。緋袴姿で金髪に鈴をつけた少女は、足取り軽くニカと冥のそばへ歩み寄る。

「ほんっとうに余計なこと言うなよ? じゃ、俺は準備あるんで」

 逃げるように駆け去っていく帳を見送ると、いづなはにーっこりと笑って、ニカと冥の手を握り、歩き始めた。

「いやー、愉快愉快。好物にありつける機会をくれてありがたい限りじゃ」
「俺が漢字読めないバカでよかったって聞こえるんだけど」
「いんや? あやつ、数合わせに夢中になって誰が読むのかを失念しておったようじゃからな。バカはあやつじゃ」

 カラカラと笑ういづなの足の先には、そろそろ次の講義へ向かう学生たちが席を立って空いてきた学食がある。カレー、油そば、揚げ物定食など、さまざまな香りが漂ってくるのを嗅ぎつけて、ニカの腹の虫がきゅうと鳴いた。耳ざとくそれを聞きつけた冥が、「もう昼過ぎてるもんな、お腹減ったしなんか食べてからにしよ」と食券販売機のほうへ長い脚を動かす。ぱたぱたとついていったニカがディスプレイに陳列された食品サンプルを見て「ハンバーグがある……」と目を輝かせれば、冥は唐揚げ定食の食券と一緒にハンバーグ定食の食券もボタンを押す。

「いづなちゃんは?」
「わしはおぬしらにしか姿を見せておらぬからな。きつねそばが虚空に消えるさまなど見せつけては、あとで叱られてしまう」

 このあと帳の元に戻ったら食べる、と言われて、二人は一応納得した。

 ニカのトマトあげる、じゃあ俺も唐揚げ一個あげる、といづなにおすそ分けをしながら、やや遅めの昼食を終えて、食器を返却口へ返すと、三人はまた同じ席について額を突き合せた。

「それで、おぬしら漢字が難しくて苦戦していたのじゃったな?」
「とばりにぃには難しい漢字をいっぱい知ってるんだね」
「部分的には読めるんだけど、送り仮名とつながらないのばっかで」
「あやつもまだまだ、気遣いの足りぬひよっこよな」

 謎解きのためなら、フリガナを振ってやってもよかったろうに……と不出来な弟でも見るような顔をして遠くを見たいづなは、どれ、うたの紙を見せてみぃ、と手をだした。

幼気な/若き/緑の/強かに/生ず/命を/言祝ぎて/栗花落の跳ねる/雨滴の舞踏/射干玉にふらむ

「いたいけな、わかき、みどりの、したたかに。しょうず、いのちを、ことほぎて。ついりのはねる、うてきのぶとう、ぬばたまにふらむ……じゃな」

 節をつけるように区切りながらも、いづなはつらつらとうたを読み上げた。

「読み方聞いても意味知らない言葉ばっかりだ」
「カナは振れたか?」
「うん。合ってる?」
「おお、合っておるぞ」

 ニカがカキカキとメモに書いたひらがなの読み仮名を見て、いづなはゆっくりとうなずく。しばらく漢字と平仮名の数を照らし合わせていた二人を眺めていたが、そのうちにんまりと笑って身を乗り出した。

「トマトと唐揚げの礼をしなくてはな」

 とんとん、と元の漢字だらけのうたを指さして、いづなは大きな狐耳をピンと立てる。

「あやつはこれを、『長歌』という古いうたの形をもとにして作ったのじゃろう。五音と七音を幾度か繰り返して、最後に七音の節を一つ加えるものじゃが、此度は決まりをいくらか無視しているようじゃな」
「古いってどれくらい?」
「ざっと千三百年ほど前の流行りじゃ」
「とばりにぃに、すごいね……」

 ふふん、と自慢げにするいづなだが、彼女は実のところ、百歳に満たない若輩管狐だ。帳が受けた講義を聞きかじっただけの化けの皮がはがれる前に、と、話をうたに戻す。

「かわいらしいが強く生まれた命を祝って、梅雨の雨も美しい黒髪に降るのだろう……といった意味のうたじゃ。謎解きはもちろんじゃが、おぬしの誕生祝いのために、幾夜も頭を抱えて作っておったぞ」

 いづなの金色の目に見据えられて、ニカは目をしばたたいた。

「わたしの?」
「そう。『親父や深祥さん、かさねさんみたいに、しゃれたもん用意するセンスはあんまないから』とか言っておったが」
「ある意味一番しゃれてんじゃないの?」

 冥が頬杖をついて、やられたなぁとつぶやく。詩的、どころか詩そのものを贈るだなんて、ロマンチックな男、とうたに詠まれたニカの黒髪を撫でた。ニカがくすぐったそうにしているのが、髪を撫でられたからではないことに拗ねそうな自分を抑えて、冥は一つ首をかしげる。

「そういや、五、七、を繰り返すうただって?」
「うん? そうじゃの」
「改行の位置おかしいよな」
「おっと、これ以上はわしの口から教えては怒られてしまう」

 大事なのは口に出して読んだときの音じゃ、と言い置くと、いづなはわざとらしいくらいそそくさと席を立ち、ぴょんと跳ねて狐の姿になると、あっという間に学食から逃げて行ってしまった。

 いづなを見送った二人は、目を見合わせて、それから帳のうたに目を落とした。

「口に出して読んだときの、音?」

 ニカがメモした読み仮名と帳のうたを並べて、さらに冥が自分の手帳を引っ張り出し、メモを始める。

「点と線がモールス信号だとして、区切り位置がわからないと読めない。記号がいくつで一文字分、って指示になるなら、数えてわかるようなものでしょ」
「区切りごとの文字数も、区切りの中にある漢字の数も違った……漢字が読めないとわかんないってことは、漢字の読み仮名の数が答え?」
「長歌? ってやつにしては、区切る位置がおかしいってのも、これでつじつまが合うんじゃない?」
「もとのうたが十個に区切られてるってことは、答えは十文字なのかな」
「多分? 漢字の読み仮名、数えてみよっか」

 てんてんてん、とニカが書いた読み仮名のメモをつついて、音の数を数えていく。

幼気な/若き/緑の/強かに/生ず/命を/言祝ぎて/栗花落の跳ねる/雨滴の舞踏/射干玉にふらむ

「4、2、3、3、……しょうず、は……ひらがな数えると三文字だよな?」
「口に出して読んだときの音が大事って、いづなちゃん言ってたよ」
「んじゃ2かな……あとで数合ってるか確かめよ」
「ン! いのち、で3、ことほ、ぎ……で3でしょ」
「んであとは、4、6、……記号六個も使う字があんの?」
「さっきの変換サイトに入れてみてから考えよ! 最後はぬばたま、で4だね」

 出てきた数字に合わせて、点と線の並びを区切り、二人はそろって首を傾げた。

・ーーー ーー ・ー・ ・・・ ー・ ・ーー ーー・ ・・・・ ・ー・・ーー ・ーー・

「……日本語でも英語でも、変換かけてもまともな言葉にならないみたいだ。どっちも『そんな組み合わせの字はない』ってとこがある」
「ええ……? 音の数と記号の数はあってたよね」
「うん」

 むむ、と考え込みながら、ニカは帳から受け取った紙袋の中を覗く。そもそも点と線がなにを表しているのかが、すべての答えなのだ。この袋の中にあるヒントも、帳のうたと同じようにモールス信号を解くヒントに違いない。

 がさ、と手を入れた袋の中には、ラッピングされた布がいくつかと、組紐が一本、紙片が二つ。

「お洋服と、……ストラップだ」
「かわいいじゃん」
「ニカのかな」
「他に誰が着るの、こんなかわいいの」

 学食のテーブルについたまま、膝の上でひっそりと服を広げて頬を染めるニカに、冥は温かい目を向けた。センスない、と引け腰だった青年が選ぶものではなさそうな服は、おそらく青年のバイト代で事務所の紅一点が選んだのだろう。ふんわりと広がって手首の位置で絞られた袖、大きな白い襟が付いたニカの瞳の色のシャツと、白いショートパンツは、活動的だがかわいらしい。組紐のほうは、手首に巻くのでも、スマホにつけるのでもよさそうな長さだ。どうやらいづなかららしい。あたし(たち)のほうがニカちゃんのことわかってんだからね……という勝ち誇ったような幻聴が聞こえた気がして、冥はそこはかとなく悔しさを覚えながら、紙片のうちの一枚を広げた。

「……暗号が解けたら、着替える場所は用意してあるってさ」
「これ今日着ていいの!?」
「頑張って解かなきゃね」

 声を弾ませたニカの頭を撫でると、ニカはいそいそと服をたたみ直して、残っていた紙片を開く。そこには謎の文字列がスンと並んでいた。

ピデハッーー!ーバス

「なぁにこれ……」
「かさねぇねの字だけど……」

 事務所でもかなり常識破りの紅一点だが、これはさすがに意味不明すぎる。

「ニカちゃん、これ解けると思われてんだね」
「! ニカはパパの娘だもん……頑張ったら解けるもん……!」

 ヒントと思って開けた紙片が思っていたより思考力を要求してくることばかりで、冥はややぐったりとした顔をする。一方ニカは、まだ大きめの壁が残っていたことにきゅっと口を結びながら、冥の一言でやる気を取り戻していた。

「ぴでは……」
「声に出して読むのも難しいじゃん」
「ん~……」

 紙片を矯めつ眇めつ、顔を近づけたり離したり、声に出して読もうとしたり、いろいろとしているうちに、ニカは文字列がなんだか見覚えのあるもののように思えてきた。

「……アナグラム?」
「なにそれ」
「文字の順番を入れ替えちゃうの、初歩的な暗号ですって深祥おにーちゃんが言ってた」

 めちゃくちゃになった文字の並びを元の形に戻すんです、と教えてくれた細い指先を思い返す。「世羅帳」を並べ替えて「戸原セリ」と偽名を作るような、もしくは元の文字列をただめちゃくちゃにするような。今回は完全に後者だろう。

「この変な文も、文字数は十文字なんだよね」
「じゃあ、並べ替えて正しい順番にして……とばりにぃにのうたの数字を同じように入れ替えたらいいのかな」
「さっきの結果を入れ替えるにしても、文字になってないとこあるからね。うたの数字を入れ替えるのが正解じゃない?」

 解決の糸口が見えたせいか、冥もいくらかやる気を取り戻したらしい。謎の文字列と並べて、先ほどの帳のうたから導いた数字を手帳に書き出すと、文字と数字の組ごとに千切って机に並べる。

ピデハッーー!ーバス
4233233464

「多分、『!』は最後だよね」

 ススス、と指で『!』の位置をずらす。

「伸ばし棒が連続するってこともなさそうじゃない? ……あ」
「冥くん、どうしたの?」
「俺わかったかも。そもそも、今日って何の日?」
「今日……あーっ!」

 謎に謎を重ねて歩き回って、今度は二人ともすっかり忘れていたが、今日はニカの誕生日なのだ。それを考えれば、この文字列は容易に並べ替えができた。

ハッピーバースデー!
3344634223

「とりあえず移動が一番少なくなるように動かしたけど……伸ばし棒それぞれについてる数字が違うから、もしかしたらそのまま文にはならないかもしれないね」
「そしたらまた、伸ばし棒だけ入れ替えた並びで試してみよ。えーと、点と線、区切って……」

・ーー ーーー ・ー・・ ・・ー・ ・ーーーー・ ・・・ ・・ー・ ・ー ー・ ーー・

 ニカが新たに区切りながらメモに書き出していく点と線を、冥が変換サイトに打ち込んでいき、ようやく変換ボタンを押下する。ぱっ、とあっさり現れた文字の並びは、ニカにはよく見覚えのあるものだった。

WOLF’SFANG

「うるふずふぁんぐ?」
「パパのお気に入りのごはんやさんだ!!」

 学食のテーブルに手をついて立ち上がり、ニカはぴょんと体を跳ねさせた。昼時から陣取って考え込んでいた席の周りに、さほど人は残っていない。しかし、ちらほらと席についている学生はいて、いくつかの視線がニカへ投げかけられた。きゅうと顔を赤くして冥の隣に小さくなったニカは、それでも嬉しそうに笑っている。

「んふ、えへへ、前に連れて行ってもらって、すっごくおいしかったから、また行きたいなって言ってたの、覚えててくれたんだ……」

 さっきたたんで紙袋に戻した服、それから万年筆や懐中時計、帽子をまとめて抱きしめて、ニカはくふくふとこぼれる笑みを冥に向けた。

「ニカね、たぶん今日お誕生日の人の中で一番しあわせ」

 やっぱり群れでなんかするとデカいことできていいな、と少しばかり拗ねたような気分でいた冥も、心底嬉しそうなニカの笑顔には敵わず、眉を下げて笑う。

「謎が解けたのはいいけど、そのごはんやさん行かないと、親父さんたちずっと主役を待ってるんじゃないの?」
「!」

 学食の窓から外を見れば、夕方というには早いが、もう午後も遅い時間の黄みを帯びた日差しが降り注いでいる。帳が「夕方までは待つつもりだった」と言っていたことを考えれば、おそらく予約の時間まで余裕はあるのだろうが……。

「冥くん! 早く行こ!!」
「んな慌てたら忘れ物するって。もらったもん置き忘れたらあとで泣くでしょニカちゃん」

 行先が分かってはしゃぐニカに袖を引っ張られて、冥はわたわたと手帳をポケットにしまい込み、使っていたテーブルと椅子を見回した。千切った手帳の切れ端を手の中に収めている間にも、ニカは学食の出口へ足早に進んでいる。

「落ち着きなって」

 足の長さにまかせてニカに追いついた冥は、ニカの細い肩を抱え込むように捕まえて学食を出た。

「俺そのお店知らないんだから」
「しょうがないなぁ、ニカが連れてってあげる」
「よろしくおねがいしまーす」

4.靴とパーティ

 帳の通う大学から、ほとんど来た道を戻る形で探偵事務所の最寄り駅まで帰ってくると、ニカは意気揚々と歩きだした。

「パパとー、みんなとー、冥くんとパーティ~!」

 上機嫌で歌いながら歩くニカに、冥は少し考えこむような顔をする。

「どうしたの? 冥くん」
「や、俺行っても大丈夫なのかな」
「来てくれないの!?」

 まるでこの世の終わりのような顔をして叫んだニカに、冥は軽く両手を上げて首を振った。

「違う違う、行きたいし行くつもりだけど、予約の数に俺は入ってんのかなって」

 飛び入りで一人増えるくらい、対応してくれるお店だといいんだけど……と頬をかく冥に、ニカは首をかしげる。

「予約、冥くんも入ってるよ」
「なんでわかんの」
「だって、とばりにぃにが冥くんいるの当然って顔してたもん。パパや深祥おにーちゃんはニカのことかしこい子だって言うけど、あんまり一人で出歩くのはダメって言うし……冥くんが来るのわかってて、一緒に謎解きするだろうって思って考えたんじゃないかな。そしたら、『じゃあお店の前で冥くんだけ帰してパーティしよう』とか言うわけないし」
「はぁー、ナルホドね……?」
「もし冥くんが来ると思ってなかったとしても、とばりにぃにが連絡してるよ」

 くるん、と踊るように一回転して、すたすたと歩いていくニカは、なにも心配している様子がない。これがきっと、事務所での日常なのだろう。

 果たして、到着した店には入り口に「本日貸し切り」のプレートがかかっており、そっとドアを開ければ奥からそわそわとしている集団の気配があった。ドアベルを聞いて寄ってきた店員は「坂南様ですね、お待ちしておりました」とにこやかに二人を店内へ招き入れる。

「お着換えの場所を用意しております。従業員控室で申し訳ないのですが」
「すたっふおんりーの先……入っていいの?」
「本日は特別です」

 ニカが店員に連れられて行くのを見送った冥は、さてどうしたものかと振り向いた途端に眼前に迫っていたシュタインの顔に軽くのけぞった。

「うわ」
「よく来たね」
「ニュアンスが『よくもノコノコ』なんだよな……」
「来なかったらどうしようかと思ったよ」
「来ても来なくても怖いじゃん」

 胡乱気ながらも一応歓迎のつもりらしい笑みを浮かべたシュタインに背を押されて、冥は店内の奥へ連行される。想像していた通り探偵事務所の面々が肩を寄せ合ってニコニコとしていた。食器の用意されている席は、今ここにいる事務所員五名、ニカ、そして冥のきっちり七名分。本当にニカの言う通り、予約には冥も含まれていたことを理解するしかない。

「エート、お招きいただきアリガトウゴザイマス……」
「ま、当日朝にプレゼント渡しに来るんだもんね」
「どう考えても呼んだほうがニカが喜ぶからな」
「君は私の隣ですよ。二人前食べてもらいます」
「ちゃんとたどり着いてくれて安心したっす」
「わしがいい感じにヒント出してやったおかげじゃな!」

 口々に好き勝手言う事務所メンバーに苦笑して、冥は招かれるまま深祥の隣に座った。帳が「その人ほっとくと本当に食べないんすよ、丸投げしてきても全部一口は食べさせてやってください」と介護を申し付けてくるのに天を仰いでいると、ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえてきた。どうやら先ほどまでとは足音が違う。

「パパ!」
「ニカ! よく来たね、待っていたよ」

 まだ立っていたシュタインのもとへ一直線に駆けてきたニカを、シュタインはこともなげに抱き留めた。ぎゅうと腕の中に閉じ込めてから、今日ずっと考え事をしていた頭をこれでもかと撫でる。

「私たちからのプレゼントは楽しめたかい?」
「うん! 冥くんといっぱい考えていろんなとこに行ったの、楽しかった!」

 シュタインがくしゃくしゃにした髪を整え直すようにもう一度撫でている間に、ぞろぞろと事務所のメンバーがニカを囲む。

「ねえパパ、万年筆の使い方、ちゃんと教えてね」
「もちろん。今度一緒にインクを入れてみような」
「パパのと同じインク!?」
「いいぞ」
「やったー!」

 はしゃぐニカの頭でひょこひょこと跳ねた髪をつまんで直してやりながら、かさねが笑う。

「似合うじゃん、靴痛いとこない?」
「ぴったり! お着換えするとこに置いてあったからびっくりしちゃった!」
「服は全部とばりんからで、あたしからは靴ね。とばりん、選んだのあたしだからって変な伝え方したでしょ」
「なんで言っちゃうんすか、恥ずかしいでしょうよ」
「恥ずかしがるのわかってるから言ってんじゃん」

 大学で帳から受け取った服に、白黒ツートンのショートブーツはよくマッチしていた。歩くと太めのヒールがこつんと鳴るのが「おねえさん」の靴のようで、ニカは身動きするたびに鳴るかかとの音を聞いて嬉しそうにずっと笑っている。

「かさねぇねもとばりにぃにも、ありがと! ニカおしゃれさんになっちゃった」
「かわいい子がかわいいかっこしてんのは目の保養なのよ。いっぱい着て」
「気に入ったんならよかったっす」
「あと、とばりにぃにはうたもね」
「その話は今度!!」

 耳まで赤くして話を遮った帳の後ろから、深祥がひょいと顔を出す。ニカは彼を見上げると、ポケットから懐中時計を取り出した。

「深祥おにーちゃん、この時計、すっごくきれい!」
「気に入っていただけましたか」
「うん! お外行くときずっと持ってる」
「そうしてください。自分の手で時間を合わせる時計ですから、あとでやり方を教えますよ」
「ねじ巻くの?」
「そう」
「かっこいい!」
「わしの組紐も毎日持って歩くのじゃぞ」
「もちろん! どこにつけようかなぁ」

 キャッキャとはしゃぐニカを、輪から少し外れて眺めていた冥は、不意に近づいてきたニカに手を引かれて上体をかがめた。すると、名の通りに笑ったニカが首元に抱き着いて、そのまま耳元に話しかける。

「冥くんも、今日ずーっと一緒にいれて楽しかった! ありがと!」

 柄にもなく言葉をなくした冥は、普段は閉じているのかと思われるほど細めている目をしばし見開いて、それから仕方なさそうに笑ってニカを抱きしめた。

「……俺も。ニカちゃんと一緒にいて楽しかったよ」
「ハイハイ、悪いけどパーティはこれからなんだよお二人さん」
「店員さんが料理持って困ってるから早く座ってくださいっす~」

 かさねと帳に軽く茶々を入れられて、けらけら笑いながら食卓について。さすがというか、イヌ科が集まる事務所でさらに人狼の気に入りの店ともなると、メニューはやはり肉中心で。

 各々が満足いくまでたっぷりと食べて、すっかり夜になるころには、ニカはうとうとと頭を揺らしていた。

「ニカ、今日は疲れただろう。眠いなら寝てしまっていいぞ」
「ん~……ヤダ、起きてる……」
「そりゃこんな楽しい日に、さっさと寝ちゃったらもったいないもんねぇ」
「でも眠いんでしょう」
「ヤ……ねない……」
「あらら……こりゃ起きたとき拗ねるっすかね」

 結局ニカは、睡魔に負けて誕生祝いの席ですやりと寝息を立て始める。

 その両手はそれぞれ、シュタインと冥の服の裾をしっかりと握っていた。

りんごのケーキ

※さかなのにがにが.さんのお誕生日祝いで書いたお話(2024)です。青海とレプリカさんのお話です。

「レプリカさーん」

 和装の女が、きょろきょろとあたりを見回しながら呼びかける。いないのかしら、と口では言いつつ、顔にも声色にも、不安の色は微塵もない。

「お渡ししたいものがありますのよ、レプリカさーん?」
「うるさいわね青海、聞こえてるわよ」

 呆れたように言いながら、長い前髪で片目を隠した少女が現れる。青海、と呼ばれた女は、にこりと笑って「あら、うるさくしてごめんなさいね」と悪びれもせずに少女の頭を撫でた。

「一ミリも悪いと思ってないでしょう」
「わかりまして?」
「わかんないわけないでしょ。で、渡したいものってなに」

 レプリカの少々のご機嫌斜めなど、彼女のあまのじゃくを承知で声をかけた青海には、爪の出ていない猫パンチ程度にしか効いていないらしい。んふふ、と含み笑いをして、片手に提げていた紙箱を持ち上げる。

「レプリカさん、甘いものはお好きかしら」

 ふわ、と香った果実の甘さに、ぱち、と瞬きをして、レプリカが目を輝かせた。

「この匂い……りんご?」
「ええ。あまり凝ったものは作れなかったのですけど、りんごのケーキですわ」

 青海が言うには、暁家のおやつとして冬によく作られるものらしい。小麦粉、砂糖、ふくらし粉、それから卵とりんご。なんならホットケーキミックスでも作れるのだというそれは、露青が小学生のころから作ってきたもの。

「じゃあ、これも露青が作ったの?」
「まさか。わたくしからのお祝いですわよ、自分の手で作ってきましたわ」

 だからこそちょっと不格好なのですけど、と苦笑して、青海は紙箱を開けて見せた。出てきたのはクリームでデコレーションする前のスポンジケーキのような、地味な見た目のケーキだ。上端の角が丸くなっているところを見るに、フライパンで作ったのだろう。

 焼いてからまだ時間が経っていないようで、柔らかな甘い生地の香りに、しっとりとした熱が残っている。

「……お祝い?」
「お誕生日だって伺いましたわよ」
「……あ」
「忘れていらっしゃったの?」

 今日の日付とご自分のお誕生日、どっちを? と茶化しつつ、青海は手際よくケーキを切り分ける。丸ごと一ホール持ってきたのを六ピースに分けて、椅子を引き、レプリカを手招いた。ケーキの断面には、とろけそうに透き通ったりんごが見えている。

「受け取っていただけたら、嬉しいのですけど」

 ことり、とケーキの傍らに添えられたカフェオレを見て、青海を見て、レプリカはもにょ、と口を少しばかりゆがめる。それからそっぽを向いて、ぽそりとつぶやいた。

「食べて、あげないこともないわよ」

 おとなしく席に着いた彼女に、青海は「ありがとう」と心底嬉しそうに笑う。

「ばかじゃないの、青海は『もらったほう』じゃないでしょ」
「いいえ? こういうのはね、必ず受け取ってもらえるものでもありませんから」

 なんでもないことのように言って、青海はレプリカの向かいの席についた。

「青海のは?」
「全部レプリカさんのですわよ」
「は?」

 青海の席には紅茶だけ。思わず頓狂な声を出してから、レプリカは切り分けられたケーキをまじまじと見た。

「わたし一人でこんなに食べられると思ってるの?」
「冷蔵庫に入れておけば少しはもちますわよ」
「そういうことじゃなくて」

 ――青海の言うことももっともだし、『すべてはワニの腹の中』へしまっておけば悪くなることもない。一人で食べきることは不可能ではない、が。

「……もらったからには全部わたしのよ、っておっしゃるかと思って」
「どれだけ食いしん坊だと思ってるのよ」
「あら、いつかの貢ぎ物の時なんて……」

 レプリカをからかいながら、青海は首を傾げた。

「わたくしもいただいてよろしいの?」
「わたしが食べてる間、ずっとニコニコ見られてたら気持ち悪いわよ」

 ほら、と紙箱のほうへ置かれていたケーキナイフで掬い上げたケーキを、レプリカは皿に乗せて青海のほうへ押しやった。

「……そのひと切れだけよ」

 あとは全部わたしの、と言うのに、青海はくすくすと笑ってうなずく。

「ええ、じゃあこのひと切れだけ。……たくさん受け取ってくださって、ありがとうね」
「……やっぱりばかなんじゃないの、青海」

厄災のあと

※にがにがさんのところのニカちゃんと冥のお話です。みかげさんは最初だけ

「あら、随分小さくなったわね」
「……ッ!?」
 ヒュ、と息が詰まる。
「■のところの末の子よね? ……ああそうか、あの子も人の姿になると小さくてかわいかったわね」
 酸素に飢えて、どうにか空気を吸い込もうとするが、うまくいくはずがなかった。息を吐いたら、二度と吸えないような気がして、詰まった息を吐き出すことができない。
「覚えてないかしら、一回会ったことがあるのよ。……まだ赤ちゃんの頃だったっけ。■は話してもくれなかったけど、あなたのお姉ちゃんたちはじゃれついてきて可愛かったわねぇ」
 安穏とした雰囲気で話す女の前で、立っていることもできずに膝から崩れ落ちる。苦しさを紛らわせようと服の胸元を握ったが、肺を圧し潰そうとする重圧はオキアミ一匹分ほども軽くなりはしない。
 ――姉たちに、しつこく聞かされた話。お前は溺れて死にかけたことがあるのだ、と。母に支えられなければ呼吸のために浮上することもままならず、姉たちが必死になって「魔女」を追い払って、どうにか命をつないだのだと、俺が調子に乗って長く潜航しすぎるたびに聞かされてきた。
 思い出した。この、虚ろな水の気配。海に生きるシャチの俺を、泳ぐこともできずにただ沈むばかりの死体のようにした――これが、その魔女だ。
 ぐら、と視界が揺れて、上体まで地面に平らになりそうなところを、手をついて支える。依然として息もできないまま伏せた顔に、ぼたぼたと涙が伝った。
「元気ないわね、大丈夫?」
 鱗を模したミュールの足が、コツ、と俺に一歩迫る。それだけで、思考の一切が恐怖に塗りつぶされた。
「く、るな」
「あら」
「俺に、……俺の群れに、近寄らないで、」
 女は足を止め、それから一歩で大きく距離を詰めた。
「優しい子ね。……またいつか、還っていらっしゃい」
 すれ違いざまに細い指が俺の髪に触れ、さら、と撫でられる感触。カツ、コツ、とミュールの音が遠ざかるのを聞きながら、俺は背骨が抜けてしまったかのようにゆっくりと地面に伸びた。
 いまだ引き攣る呼吸を繰り返しながら、溢れては地面に落ちる涙をまぶたに閉じ込めて、――意識が、沈む。

***

 ……いまだに、神経が圧し潰されたかのように全身の力が抜けている。いつまでも地面に倒れていると、座礁したときのことを思い出すようでよくない。
 はやく、はやく立ち上がりたいのに、せめて座るくらいできないのか、と指先で地面を掻くが、爪のあとさえ残せなかった。
「……」
 呼吸が落ち着いてきたことだけが、救いだ。泳げなくても、起き上がれなくても、ここは陸だから、息ができる。
 持ち上げられる気がしない、重い頭と体を転がして、どうにか仰向けになった。
 たた、ととと、と軽い足音が近寄ってくる気配。
 その足音には聞き覚えがあった。かっこ悪いところを見せたくなくて、無理をしてでも起き上がろうかと思ったが、彼女が来てくれたと思ったら、なけなしの力も溶けて消えていく。
「……えっ、冥くんしんじゃった!?」
 あまりの言いぐさに、それでもなぜか胸が暖かくなる。凍ったように強張っていた顔が緩んで、は、と吐息に笑い声が混じった。
「生きてるよ」
 そう、――生きている。二度もあの厄災と鉢合わせて、命がある。
「よかった。じゃあ、生きてるならニカとあそぼ!」
 ぐい、と小さいのに力強い手に引かれて、やっと腹に力を入れることができた。ようやく起き上がって、まだ重い脚を引きずり寄せ、胡坐をかく。
「んー、遊ぶ、けど、ちょっと抱っこされてくれない? ニカちゃんぎゅーしてたい」
「ええー? いいけど……」
 ええー? の段階でつかまれていた手を引っ張ると、ニカちゃんは抵抗もせずに胡坐の中に納まってくれた。それなりに強く抱きしめているはずなのに、小さくて細い体は、ともすれば俺の腕をすり抜けていきそうだ。前腕をほとんど重ねるようにして、彼女の肩に額を預ける。
「……冥くん、泣いてた?」
「……男の子にそういうの、聞かないほうがいいと、俺は思う」
「知らない男の子のことなんかどうでもいいの。わたしのこと大好きな冥くんに聞いてる」
 到底かないっこない。いつも格好つかないところばかり見せていて、嫌にならないのだろうか。こうして甘えさせてくれているうちは、きっと愛想をつかされたりはしていないのだろうけれど。
「……今は、泣いてないよ」
「じゃあさっきは泣いてたんだ。……誰」
 ぴりぴりとした、苛立ちまじりの声に、ゆっくりと顔を上げる。涙の痕でみっともないだろう顔を、じと、と見られた。
 多分、俺が痛めつけられたことよりも、どういう向きであれ自分以外に対して俺の心が動いたことにキレている。
「……おばけに会ったんだよ。怖くて泣いちゃった」
「おばけ?」
「そう。もう来ないでって言ったから、追っかけたりしなければ、多分もう会わないよ」
 本当か、と疑わし気な視線に苦笑して、俺は彼女の頬に頬を擦り寄せた。
「パパにお願いしたらやっつけてくれるよ」
「えー? ……おばけ退治するひとにさ、おばけこわくて泣いちゃいました! たすけて! って言うの、俺恥ずかしくてヤダよ。そんな弱い男にニカを任せられん、とか言われたらまた泣いちゃう」
「もー、冥くんそんな泣き虫だったっけ?」
 少し視線を動かせば、襟から覗く細い首が目に入った。気が付いたら口が開いていて、そのまま衝動に任せて軽く歯を立てる。
「いたっ」
 跳ねた肩が顎下を直撃するが、大した衝撃はなかった。
「急にどうしたの」
「だめ?」
「いいけど……」
 冥くんが噛むならニカも噛むから、お部屋のほうがいいかも。